こいのぼりは廃れてしまうのだろうか

 ​沼津の知人の初節句の祝いに招かれ、地方の豊かさと豪華な設えに圧倒させられた。着用鎧・兜が中央にでんと構え、左右に種々の飾りが施され、前面には五月人形がズラリと勢ぞろいする。男の子の誕生は、古から歴史の継続の希望であり(今こんなことを言うと目を剥いて反論するむきが・・)、例外は少なからずあるとしても、男児誕生に関して一般的には重要なお祝い事に位置づけられている。

​​ ​その為、世間が放っておかずは言い過ぎか、一族でお祝い品の役割分担を作るという話なども聞いたことがあるが、そうしたやり取りが大量の飾りから感じられ、良くも悪くも地方は人の結びつきが強いので、豪華さがどんどん増すのかなと想像を強くした。

 ​五月人形は子供の厄災を引き受ける存在なので、人には譲れないということは男の子の数、そしてその孫が親の世代の責任範囲であり、子供が親の立場になったら自分の分は、供養=処分ということになるのかもしない。鎧兜は代々繋いでもよさそうな気がする(大丈夫?)。

子供の誕生をしらしめる豊かな文化

 こうした室内飾りはお雛様もそうだが、形を変えながら続いていくと思う。ひな壇を飾ったら部屋が半分になったなんて話も都市部では聞こえてきたりするが、こんなのは長くは続かない。仕舞っておくのも大変、出して片付けるのも大変というのは、家制度があったからこその話で、核家族の社会なりの形に変わらざるを得ない。いずれにしても子供の誕生・成長を寿ぐという風習は、是非とも続いて欲しいと願う。

 その家のご主人は「昔はこいのぼりが5~6本(竿)は立った」と言う。恐らく地方であれば4~5m級のサイズで、それこそ屋根より高いこいのぼりが泳いでいたと思えるが(都会用の物は4mのこいのぼりの場合、ポールの高さは6.8m、杭は打たずにロープで支えるようになっている)、支柱は一人二人で立てられるものではなく(ユーチューブで電信柱より高い支柱の設置を見た)人口減少と高齢化により物理的な困難も推察される。

 子供の誕生を伝えるという役割を考慮すれば、本来的には遠目に見えるものが望まれるが、可能なかぎりとして庭先で子供と共に楽しむものに変わらざるを得なくなっているようだ。特に都市ではマンションのベランダから掲げるという例も見られるが、現下のこいのぼりは居場所を失い、本来の目的からの変質を余儀なくされつつある。

富士山とこいのぼり

 2年前に多摩川に架かる二子橋の渋滞の車中から、富士山とこいのぼりの構図(写真:右の赤丸)が見られ、あわてて写真に収めた。渋滞停車なので場所は選べず、後から見るたびに「もう少し富士に寄せたい、そして望遠を」との思いが募り、2年後にようやく散歩がてら出かけた。今年は4月後半から5月にかけてスッキリした日が少なく、又ある程度の風が必要なので思いあぐねていたが、5月入ってようやく絶好の日和がきた。

 写真:左がその時の富士山がクッキリと写った状態で、本当に絶好の日だったが、残念ながらこいのぼりは立っていなかった。位置関係から言えば、旧三業地だった二子(ふたご)新地の一画で、明治の末から待合が集中していた花街なので、農家ではなく商家なのかも知れない。屋根より高いこいのぼりが上がる程のお宅なので、旧家のような気がしている。2年前には上がっていたのだから、多分、高齢化の影響ではない別の原因が推察され、来年にお預けということにした。遠目にもくっきり見えるこいのぼりの風景は、この地域では貴重なお宝といっても過言はない。

江戸時代の発明

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 沼津の帰り裾野辺りで見えた富士山は格別なたたずまいを有していた。富士山もこいのぼりも日本の宝。

 端午の節句は奈良時代に中国から伝わった風習であり、時は下り、江戸時代に武家では男児誕生を伝える幟(のぼり)を掲げる習慣があり、それを見て、庶民が「流れの早い滝を鯉が上り、そして龍に変わり天に上った」という中国の伝承とかけ合わせて「こいのぼり」を考案した。洒落というか頓智がよく効いている自由さ、ある意味日本の得意技、単純な真似ではなく独自の思考で自分たちのものにして、更に行事として定着せてしまった。

 実に世界に誇るべき特性であり、刀・鉄砲の時代から明治維新後30年弱で、西洋の工業力を取り入れて大国「清」と戦い、その後も世界を震撼させ、結果的に白人国が行っていた有色人国の植民地支配の奔流に棹差すことになる、ロシアとの戦いも乗り切った。19世紀の掉尾(ちょうび)を飾ったこの2大戦争を、国力を大きく消耗させながらも乗り切れた一つの要因としては、こうした一般の庶民でさえ有していた進取の精神と自由な発想が欠くべかざるものだったと言えそう。

 緑の山影に聳え流れる姿、江戸の長屋の甍(いらか)の波上で吹かれ泳ぐ姿、その頃、富士山はどこからでも見え、こいのぼりは富士山と絡み合っていただろう。江戸の人たちは見栄っ張りだったというから、大きさを競っていたのかも知れない。こいのぼりという魚を空に泳がす奔放さは、そのあらゆる光景を思い浮かべるだけでも美しいし、その鯉の構成で家族の姿を想像させられる、平和の象徴のような「日本の宝物」と言ったら言い過ぎ、大袈裟だろうか。

 二子玉川では、今は一部の神社やお寺、幼稚園などでしか見ることが出来ない。個人宅ではまれであり、工事現場に掲げられたりしている程度。一方、各地の行政や団体では使わなくなった?こいのぼりを集めて、川にケーブルを渡して一斉に吹き流したり、最近のニュースでは東京タワーがこいのぼりだらけになっていた。なんとしても頑張って欲しい。

 首相官邸向いの総理府の屋上には、日章旗と並んでこいのぼりが掲げられていたことを、最後にお伝えする。

プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、まだ“新住民”の範疇で、環境の良さ、便利さをただ享受しています。
●でも二子玉川を散歩し調べてみると、殊の外、奥深い歴史を内包していることが分かりました。
●子供たちが歴史や文化を学ぶ機会は少ないようなので、ただ生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しいと感じ、いつか目に留まる機会を期待して、土地の物語を紡ぎます。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を 、出来るだけ“堀上げ” 整理することが目標です。

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