江戸の台所を支えた「多摩川下流用水(仮称)」②

狛江次大夫は神として祀られている

 狛江市の和泉には六郷用水取水口があり、取水口が破壊された記録や、岩戸付近では用水路そのものが破壊されたとの記録もある。六郷用水のできる前、取水口近くに六所宮という神社があり洪水で流されてしまい、場所を移して神社名を伊豆美神社として再建したという。そもそもこの場所は川の流路が蛇行してぶっかり易い場所だったようだ。(川の流れを引き込むには最適な場所だった)

 「水神社」用地は、元々奈良時代の末に建てられた「六所宮」があった場所で、室町時代の洪水で流出する被害を受け、こうした厳しい環境を避け少し離れた台地上に「伊豆見神社」(名は変えたが実質関東の六所宮を奉斎する)と名を変え遷座している。跡地には水神様(みずはのめのかみ)を祀る水神社を創建して、伊豆見神社の末社とした。偶々かどうか、その年に「六郷用水」の完成をみて、その偉業を讃え且つ「用水守護の神」として順正院宗可日久霊神(小泉次大夫)が合祀された。

 昭和3年(1928)には、次大夫敬慕342年祭が伊豆見神社宮司により斎行され、この時には「東京府荏原郡六郷用水普通水利組合(以下、氏名略)管理者池上町長、常設委員入新井町、池上町、六郷町、羽田町、矢口町」の恩恵の深い地域の代表と、「東京府北多摩郡狛江村和泉用水工事〇當人 石井〇吉、石井寅二、小町〇一、分郡調布町下布田〇戸〇二」(〇は読み取れない字)など建設に携わった関係者の子孫と思われる人が一堂に参拝している。

江戸時代の様子

 「現在の市域は、江戸時代の和泉村、猪方村、岩戸村、覚東村、小足立村、駒井村の六か村にほぼ該当します。狛江は江戸時代を通して畑地の多い農村であり、江戸時代後期の戸数は290戸、人口は約1,500人くらいだったと考えられます。関東は幕府直轄領や大名領、旗本領、寺領等が複雑に入り組んだ地域でした。狛江も多分にもれず、とくに和泉村は三給支配といって、彦根井伊家、旗本石谷家、旗本松下家の三家が一か村を三分割して所領としていました。」

取水口辺りの様子

 「六郷用水の両岸は、ガサヤブや木立ちで覆われ、水辺に近寄りにくいところが多かった。多摩川からの取入口辺りは、はるか深い底にヘドロが見えて気持ち悪く、水を通すトンネルの中にはコウモリなんかがいた。」

 「多摩川の水位が、もともとは今より一丈(約3m)も高く流れていたから用水の水は豊かで、大正時代、取入口の目の前で玉翠園を経営していた井上家では、自宅との間で荷を運ぶのに舟で往来できた。また小川重次さんも子どもの頃、毎年五月川を上るマルタという魚を獲りに、漁師の舟が岩戸橋付近まで来るのを見かけている。」

 「取り入れ口の近くには竹の蛇篭の堰があり、その上流ではアユがたくさん採れました。いまの五本松付近の堤防は針金製の蛇篭でしたね。わたしたち兄弟は、堰の下の浅くなっているところで泳ぎました。」

古老のお話であれば、大正・昭和初期の頃か

用水網の広がり

 取水堰(和泉水神前)から現在の用水埋め立て大通り(狛江福祉館通り)に沿って、田中橋→狛江市役所前→旧野川通り交差点→二の橋(世田谷通り)→中之橋(次大夫堀公園北)まで続く。かつて六郷用水に架けられていた田中橋、駄倉橋(眼鏡橋)、北谷橋、岩戸橋、一の橋、二の橋などある。

 「狛江地域においても、六郷用水は自然の水利を切り替え、補強する大変革で、これから分水して新田開発もなされた。猪方用水の取水口は福祉会館(現・西河原公民館)のやや下流で、猪方新田や柳沢(やぎさ)新田と田中相(あい)の田に水を引いた。市内でも3つの堀(猪方用水、内北谷用水、岩戸用水)に水が分けられ、和泉村、猪方村、岩戸村などの水田を長い間うるおしました。」

 狛江では六郷用水、野川、清水川、岩戸川、根川に加え、そこから田や畑に水を引く流れが張りめぐらされた。野川に関しては次の記載が参考になる。

 「六郷用水に落ちて来る少し上手でも、両岸にはまだ萱原笹原が残り、川楊の根株を洗って居るやうな処もあつて、いかにも野川の名がふさはしく感じられる。」(柳田國男「水曜手帖」)。野川は、狛江の北部を縦貫して六郷用水に合流する豊かな水脈であった。

用水と人々の生活

 「この橋は六郷用水がなくなるまで使われましたが、橋の幅が3mぐらいありましたね。用水と野川の水が合流するので、一の橋の辺りは川幅が道より広かったんです。子どものころは、水もきれいで、橋の上から飛び込んだり、よく遊んだものです。」

 「道の南側に六郷用水が流れていて、昔の人は「ジダイボリ(次太夫堀)」と呼んでいました。沿道はほとんどが桑とクリ、野菜の畑で、その間に農家が点在していました。」

 「おれたち尋常六年から高等科の頃といえば、学校(旧一小)の裏が堰(せき)場で、あそこへ行っちゃ水を浴びるんだ。そうすると先生が怒るんだよ。それで…先生が来て着物を持って行っちゃうんだよ。」明治時代の子どもは、六郷用水の豊かな流れを楽しんだ。」

 「野川からの水が、ぬるまっこく少しの雨でも濁ったのに対して、六郷用水の多摩川からの水は冷たくきれいであった。」

 「昭和初年まで大山街道の本道に当たる小さな橋があった。ここの洗い場では、登戸辺りからの肥引きの人たちも「いい水だア」と喜んで飲み、涼んでいったものである。」

 「洗い場は、この清水(しみず)川にかぎらず、六郷用水にも、大川(旧野川)から分水したジザイ堀にも、千町耕地沿いの根川にも、なにげなく設けてあった。いたずらっ子が流れにくい物を放り込むと、大人は「下(しも)の方の人みんな使ってるんだ」と叱る。四季の野菜物を洗い、年の瀬には餅米をといだ。が、また肥桶も洗い、冬は水が暖かいから、おしめも持っていく。夏、麦の棒打ちで一汗流し、そこへ行けばすうっとして汗がひいた。子どもが泳いで遊び、人が来ないところなら、女性が尻をくりっとまくって用を足したとか。」

用水の管理と使命の減少

 「もちろん狛江の用水堀の主要目的は、水田の潅概である。だから、堀さらいというだいじな仕事があった。駒井の場合毎年6月、一軒一人出て朝から一日がかりである。堀さらいは、用水ごとに日が決まっていて雨でも決行した。相(あい)の田の用水は5月1日で、上流から始めた。落ち葉が多くて、あげるのが大変で、水が少ないときは顔までまっ黒になった。岩戸では六郷用水の樋口(ひぐち)からと川下からと両方で始め、ぶつかったところでおしまいにした。」

 「昭和初年、農村救済事業で用水沿いに道路を新設したとき、岩戸橋のたもとにコンクリートの共同洗い場ができた。田中橋の階段の共同洗い場も、御大典記念と銘うった駄倉(だぐら)橋のスロープのそれも、同じ頃の産物である。もとから自家用のささやかな洗い場(川戸)は、ところどころにあったものの、コンクリート製の施設が、水量の減りだした六郷用水の新しい景観をつくった。」

 「昭和6年(1931)に始まる日本水道狛江浄水場が、今の田中橋児童遊園の位置から取水し、上水道の水源拡張をしたのは昭和10年であった。この頃、六郷方面が都市化して潅概用水の需要は減りだしていた。しかし、多摩川の砂利採掘などによる水位の低下はさらに激しかった。昭和30年代には、もはや多摩川の水はほとんど六郷用水に入っていない。それでもまだこの潅概用水を必要とした農家では、泉龍寺裏辺りでの湧水を当てにして川ざらいを試みている。旧野川の廃止がとどめとなった。」

狛江市役所の記憶の保存が優れているので、少々過大な参照となったが、取水口のある地であること一番、二番は用水の実態が理解できることは、歴史の事跡の理解もより深まると思う

通過地域としての【喜多見】

 喜多見氏初代の勝忠が治めていた頃で、このうち喜多見村を流れるのは15町(約1.6km)で、途中に分水口が2力所設けられていた。小泉次大夫は慶長2年(1597)から川筋となる村々を順に検分して、喜多見村には翌3年8月6日に来ており、このときは名主五郎右衛門宅が宿所とされ、名主・年寄の案内で見立・杭打が行われた。喜多見村部分の河道は、慶長10年(1605)〜12年(1607)の間に掘削・整備されているが、西隣の岩戸村から喜多見村を経て、大蔵村境までの六郷用水の河道は、実際、旧来の野川の流路がそのまま用いられていた。喜多見では昭和30年頃まで農業、生活用水として利用されていた。

 喜多見村の全体の田のうち六郷用水の水を引いていた田は、宝暦2年(1752)に26.5%、明治2年には16%だった。喜多見村は多摩川をはじめ野川・入間川などの自然河川に恵まれていたことと、和泉村の泉竜寺境内から湧き出す「悪水堀」(幅2m)もあったので次大夫堀の依存度は、さほど高くなかったようだ。

中間地点としての【大蔵】の役割

 大蔵村では用水の余分な水を野川に通して多摩川に回す、あふれ防止の役を果たす「洗堰(あらいぜき)」が設けられていた 。狛江、喜多見と東進してきた用水が「堰」が設置された位置で、斜め北に向かう絶好の場所だった。

今もその余水が流れたと思われる暗渠の水路跡が残されている

写真:左 大蔵の洗堰があったと思われる所、写真奥から用水が来て、手前に溢れた水が野川に向かっていく。右方向が本流となり永安寺前を通って水神橋へ向かう。 写真:中 玉川4丁目の増水対策の水門、あくまでも排水用で取り入れ口ではなかった。 写真:右 旧大山街道(現・二子玉川商店街)が交差する所に架かる「治大夫(じだいゆうと読む)橋」の袂に立つ、次大夫堀(こっちは、じだゆう)の標柱

 村の地形は東北部の海抜50mの台地のほか、だいたい40mほどの国分寺崖線の台地に竹やぶ、雑木林が点在していて、北の台地から仙川、野川(六郷用水)、谷戸川が南の低地へと流れ、南北に細長い地域であるために、その土地の状況は様々であり、農業といっても場所によって条件が異なっていた。田んぼの用水としては六郷用水の水は利用できず、荒井の堰より上流の野川や仙川から水を引いていた。石井戸橋から氷川神社の下辺りまでに九つの水車があって水には不自由することは無く、畑作が中心の大蔵地区では6丁目の辺りの「本村」が水田稲作に適していた。

 本村の真ん中を南北に流れる用水は、幅が二間三尺(約4.5メートル)あり、左右に二間ずつの土揚敷が設けられていて、ここが六郷用水を象徴するような場所であり、6丁目の真ん中を通っていながら生活用水としてしか利用できなかった。野川が1、2年に一回くらいは大水で氾濫し、そうなると六郷用水に野川も流れ込んでいるので、川べりの家は庭まで水浸しになるなどの被害に遭い、踏んだり蹴ったりと思ったかどうか、仮に用水が無くても、野川の氾濫による影響は避けられなかったからか、諦めはついたのかも知れない。

 「当時の川は水がきれいで、サワガニやメダカの泳ぎが見られ、エビ、カニ、ドジョウ、ウナギ、ハヤなどが獲れたということです。」

【岡本】から崖線下の狭い水路となる

 「この工事の瀬田から鎌田までの杭打ちの案内役は当時の岡本村の名主と年寄りが務めたということです。また、減水時には水争いも起こったということです。」

 「村は農村として開拓され、元禄8年(1695)には家数35戸、人口235人、一寺の村になりました。」

 「六郷用水は水がきれいで多くの魚や貝などもたくさんすんでいました。」

女堀の伝承が残る【上野毛】

 「この用水工事は、当時は大変な難工事で測量は専ら夜間にちょうちんやかがり火をたいて行われました。人夫はすべて村人たちで、来る日も来る日も土と岩と石とのたたかいに疲れ切って、工事はなかなかはかどりませんでした。そこで次太夫はいろいろの作戦を考えて工事の進捗をはかりました。その一つに男の人夫十人に女性一人を配して作業を手伝わせたところ、非常に能率が上がったということです。こうしたことから、六郷用水を別名「次太夫堀」とも「女堀」とも言うようになりました。」

 「何だかだいっても若い娘たちがそこにいるのはいい、大変に結構なことだ。ただその1人に取っ掴まるとおっかなくなるがね・・・」

 「六郷用水は単に水田に利用されただけではなく、生活用水としても重要な役割を果たしました。各家では用水に洗い場をつくり、収穫した野菜を洗ったり、洗濯物をすすいだり、また米とぎまでもしました。」

【下野毛】

 「下野毛は、上谷戸、下谷戸、東(根―これは川の淵の意)、西、岸、大原、谷川、上河原、下河原、三谷という字に分かれ、初めは東と言われる六郷用水沿いに家々が集まってひらけ、その後、谷戸の方へと発展していきました。」

【野毛】

 「現在はドブ川と化したこの用水も、昭和25年頃までは非常に水のきれいな用水で、フユ、ハヤ、コイ、タナゴ、ウナギ、タニシ、シジミ等がたくさんいて、初夏の頃ともなるとホタルがスイスイ飛び交い、それは美しい風物詩でした。子供たちにとって、魚取り、タライ競争に、かっこうの遊び場でした。現、池田酒店前には水深2〜3m位の〝セキ〟があり、カンガイ用水の「堀り割」がここから分水して園芸高校果樹園の脇を通り、現玉堤小学校の南門前から延びていて、八丁堤へと続いていました。」

当に人を得たり「掛樋」

 大田区に入る直前には、世田谷区内の用賀辺りの湧水を集約して流下する「矢沢川」の難所が控えている。この川は国分寺崖線を大きく掘り下げて、東京23区内で唯一の渓谷美を誇る「等々力渓谷」が下流となっていて、六郷用水は掘り下げられた川を跨ぐ必要がある。(現・丸子川(六郷用水の今の呼び名)は、そのまま矢沢川へ流水している)

 六郷へ向かう水は一滴たりとも無駄にできない状況で人を得たり、次大夫の実家である植松家は富士宮の「鷹岡伝法用水(たかおかでんぼうようすい)の再興管理を任されていて、「二本樋(にほんどよ)」いわれる用水路が別の川をまたぐために架けられた橋のような水路が有名。こうした知識が供わっていたのは間違いなく、矢沢川の上に「掛樋」が渡されていた。立体交差する用水の出現には村民たちも、さぞ目を丸くしたように想像される。

大田区内の大雑把なまとめ

              写真:左 野毛の排出水門 写真:右 お鷹の圦堰

 大田区に入ると、田園調布八幡神社近くに「お鷹の圦堰(おたかのいりぜき)」がある。これは、大蔵の洗堰や、玉川4丁目の小水門、野毛第三京浜高架下の中水門に続く4番目の排水用の堰であり、増水した時の計画された逃げ道となる。玉川では谷川排水樋管に、野毛では下野毛排水樋管、お鷹の圦堰は上沼部排水樋門(いずれも現代呼び名)に排水され、大田区のお鷹の圦堰は増水対策最後の砦の様で、比較すれば立派な構造となっている。

 当然、昔はもっと簡単なものだったと思えるが、昭和の時代でも丸子川は各地で氾濫しているので、しっかりとした設備として今に伝わっているようだ。

六郷用水物語 ジャバラ

六郷水門(大田区南六郷二丁目35番)

 六郷用水の末端で多摩川に排水するために昭和6年(1931)に竣工した水門。この頃の六郷用水は農業用水としてだけでなく生活排水の下水路と化してきており、その排水のための水門とポンプ施設が造られた。

矢口村の南北引き分け

 「六郷用水は世田谷領を経て六郷領に入り、矢口村の南北引き分けで北堀(池上・新井宿・大森方面)と南堀(蒲田・六郷方面)とに二分されました。以後300年余り大田区の農民の生活になくてはならない用水路として利用されてきたのです。」

 「北堀は16村、南堀は23村の地域を流れ、平野部全体に水を巡らせました。南堀の先は現在の蒲田や六郷・羽田まで続き、現在も周辺で流路のなごりを見ることができます。」

水利用に係る問題

 当時の農業には水争いや盗水は付きものであり、嘉永5年(1852)7月の田中家御用留によると「六郷用水分水に付小前不行届ないように取決める」とある。六郷用水はその灌漑の重点は上流の世田谷領にあるのではなく、下流の六郷領にあったので平水時には問題はなかったが、減水時には両領の利害が相反し、しばしば対立が生じた。渇水期には六郷領から堰の管理人が配置されたりもした。


もし、ことし米が取れなければ、ただでさえ、とれた作物のほとんどを、地主に納めねばなりません。

二年分も続けて取られたら、それこそ、たまったものではありません。二年も三年も、続けて苦しまねばなりません。

そこで与吉は、川上の水を、とちゅうの田に流さないで、自分の田んぼまで引いてこよう、と考えました。

この村に古くから伝わるおきてとして、用水の水をせきとめ、川下の田んぼへ水を流さなかったり、自分の田んぼへばかり水を流しこむことは、かたく禁じられていました。

このおきてを破ると、村八分にされたり、村から追い出されることになっておりました。


 用水の管理は最終的には幕府だったが、実際は世田谷領、六郷領の村ごとの用水組合が行っていた。実際の用水使用上の管理は、沿岸35ヶ村の大組合と、世田谷領14ヶ村と六郷領21ヶ村の2小組合によっておこなわれた。大組合は、普請や堀浚いなど統一的作業を要する場合に寄合って協議し、平常の用水管理は小組合が管理していた。

役目を終えた六郷用水

 「市街化につれて、これらの流れは次々と姿を消し、それとともに橋も役目を終えた。昭和40年代に六郷用水に下水道管が敷設され、ついで昭和42年(1967)には野川が調布市・世田谷区との境を流れるように改修されて、旧野川にも同様な工事が行われ、地上は緑地公園になった。現在、市内の橋は市境の野川、多摩川と根川に残るだけになった。」

狛江の用水本流跡の道路は「六郷さくら通り」として名を残し、取水口辺りを起点として桜並木が田中橋まで続き、通りは狛江駅近くで終わる

 「しかし昭和30年(1955)以降の急速な都市化によりその役割を終え、そのほとんどが暗渠となり、現在、丸子川と名を変えて残された一部の流れが、昔の姿をわずかに留めているだけである。」

 「こうした中、無秩序な開発と、無機質化していく街を憂いた区内喜多見地区の住民の皆様から、地区内の荒廃した次大夫堀の復元と農村公園の建設要望が区議会に提出されました。世田谷区ではそれを受けて、同地区内に現在野川から汲み上げ浄化した水の流れる復元堀や水田、そして江戸時代の茅葺民家を復元したふるさと公園を、昭和63年秋の完成をめざして、建設を進めております。」

 「治大夫堀の石標(玉堤2丁目4番9号角にある。)廃止されたのは昭和20年頃だ。宅地化が進み、大半は同45~55年代までに埋め立てられたか雨水用の下水道となった。流路の大半が失われたため「幻の六郷用水」と呼ぶ向きもある。一部区間(世田谷区岡本~大田区田園調布)は丸子川として残っている。また世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水により次大夫堀が再現されて次大夫堀公園となっている。大田区内では、中原街道から東の東急多摩川線の多摩川駅~鵜の木駅付近に湧水を使って用水路が再現されていて、残りは歩道になっている。」

参照資料                                                     多摩川両岸の地形や土地利用からの考察、ニケ領せせらぎ館、ウィキペディア、グーグルAI、大田区史、京浜河川事務所、六郷用水、苗字のルーツは日本の歴史、ニケ領用水物語、多摩川両岸の地形や土地利用からの考察、世田谷の河川と用水、小泉次大夫用水史料、六郷用水の盛時、狛江のまち 魅力百選、用水で遊ぶ、用水堀の四季、狛江市「わっこ」NO45、狛江市「わっこ」NO5、武蔵野・江戸を潤した多摩川、新きぬた村昔話、近世の喜多見村、ふるさと世田谷を語る、喜多見・大蔵・鎌田・岡本・上野毛・野毛、東京23区の散歩道を歩く、大田区歴史スポットマップ、世田谷区、地理院地図

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