西南

奈良の歴史を伝承する​​​

大蔵の地名の考察 「二子玉川」の歴史を遡って、具体的な名前が出てくる最古の事例と言えるかも知れない。7世紀後半 ​​中央集権の支配体制​​ 大化の改新・大化元年(645)により中央集権体制を推進した朝廷は、大宝元年(701)大宝律令を定め、...
雑感

仏教の先の見えない岐路

大正3年7月のある新聞によると「今後の宗教家は、愚夫愚婦を捉えて、地獄天堂の別を説き、金を巻き上げんとするのではなく、時運の向かう所を明らかにし、努めて世情に慣熟することを怠らず、弘宣するの傍ら社会的事業に取り組み、以て国家に奉ずるの覚悟を...
西北

二子玉川の小泉次大夫②

二子玉川の小泉次大夫にまつわる『三題話』1、原家には「植松氏」の血が流れている 玉川4丁目の原家は、昭和9年(1934)玉川に定着して、昭和11年(1936)玉川瀬田町605番地(現在の瀬田4丁目環八通り沿い)において「二葉練乳商会」を興し...
西北

二子玉川の小泉次大夫①

四ケ領用水について 天正18年(1590)徳川家康は小田原後北条氏滅亡後、豊臣秀吉の命により関東に移封され、ただちに力を入れたのは街道の整備と農業生産の拡大だった。 当時、多摩川沿いの村々は川の流れに接しながら水利が悪く、荒れ地、砂礫の草原...
二子玉川論

驚異の大発展 「玉川」に力が集積した

二子玉川という「地名」は存在しない=009第一段ロケット点火=玉川電気鉄道= 大正から昭和初期にかけて風光明媚(めいび)な観光景勝地として多くの人を招き入れた。目の前に一級河川の多摩川が流れ、後背地の国分寺崖線(がいせん)には緑豊かな丘があ...
二子玉川論

「多摩川」を挟んだ二つの村 ②‐2

二子玉川という「地名」は存在しない=007弟(妹)たる「瀬田」そして玉川 その2瀬田・玉川の文明開化 玉川電気鉄道(玉電)の企業努力 行楽地として恵まれた自然を見逃さず、農地だけという土地がかえって有効となり、明治40年(1907)「玉川電...
二子玉川論

双子のような「二子(ふたご)」と「玉川」その②

二子玉川という「地名」は存在しない=003 土地を巡る種々の因縁を縦軸(時代軸)に、大山街道が「二子の渡し」を介して両村を貫通する生活軸(横軸)が絡み合い、多摩川の河岸地域という「相似 」と「相克」が両地域には見て取れる。 第四の視点 兄弟...
二子玉川論

プロローグ 「なんで二子玉川?」

二子玉川という「地名」は存在しない=001 二子玉川「郷土史会」の話として、ウィキペディアや「二子玉川ライズ」のホームページでは、対岸の「二子(ふたご)」村と「玉川」村を合わせたという説が紹介されている。 この説を裏付けるのは、「目黒蒲田電...
雑感

素朴な確率的信仰論

民主主義も死につつある 安倍晋三元総理が暗殺されてからこの方、3代の総理大臣により外国人の流入が促進され、当初は国保未納の状況とか、犯罪の動向とか、外免切り替えの実態や、土地等の取得、民泊・白タクの問題など、分からないようにされていたが、最...
東南

二子玉川の「宝塚」? 川上児童楽劇団

波瀾万丈の物語川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小山、小熊説もあり)明治 4年(1871)東京・日本橋、両替商・越後屋の12番目の子供として誕生 新政府の時代となり銀行が誕生し、生家は没落、7歳の時に葭町(人形町あた...