江戸の台所を支えた「多摩川下流用水(仮称)」①

六郷用水が六郷・大森を一大穀倉地帯に変えた

 六郷用水は多摩川上流の水を活用して、下流の大三角州である大森・六郷の灌漑を行い、徳川領地の水田開発を実現した。六郷周辺には世田谷の湧水を集めて流れ下る「吞川」しかなく、そこから汲み上げて活用するには水量も足らず、遠浅の海岸が間近い地域なので井戸の活用も出来ず、塩分を含まない水が不可欠だった。

 取水口となった狛江や上流部の喜多見には多少の水田面積(水自給可能)があり、その先、下流の大半の地域では、多摩川と国分寺崖線が近く水田用地も少ない為(洪水の直撃を受ける危険性のある場所だった)、当初から世田谷領の開発は念頭になかったのではという説があっても不思議ではない。喜多見・大蔵・岡本・瀬田においては一級河川が複数存在しているので、確かに現・大田区地域程の必要性はなく、為に自分たちの利益が感じられず、上野毛地区では工事が捗らなかったという話もでている。

 ただ少なくとも狛江地区内では「用水の支流」のようなもので更に必要な土地に水を回し、新田の造成も進められたことと、完成後は世田谷領内でも生活用水として活用され、余水は農業用水として使用することが許されていた等、多少の利益を訴えつつ、奉行次大夫は権力を行使したのかもしれない。

享保10年(1725)に多摩・埼玉の代官田中丘隅(休愚(きゅうぐ)・元川崎宿本陣、名主)の手により二ヶ領用水と六郷用水の改修が並行して行われ、この後から世田谷領でも六郷用水が利用できるようになっている

開さく当時世田谷領と呼ばれる区域の用水通過村は14ヶ村であり、和泉・喜多見の両村は旗本領で、その他は殆どが天領だった。その後寛永10年(1633)井伊氏が世田谷領内15ヶ村(2,300石余り)を拝領した時、用水に関わる村は、和泉(一部)・猪方・岩戸(以上、現狛江市)・大蔵・鎌田・岡本・瀬田・上野毛・下野毛・小山の10村であり、村高合計は1,422石余り、井伊領石高の約6割を占める水田の最も多い地区で、幕末まで村高の改訂はなされなかったので、用水による新田の造成等の生産向上分は村民を豊かにさせていく

六郷用水(ニケ領用水)の概要

 慶長2(1597)年、次大夫は多摩川下流左岸の世田谷・六郷領に六郷用水を、右岸の稲毛・川崎領に二ケ領用水を開削するための測量を開始した。測量は夜提灯をともして木に登り、その明かりで高低差や方位を測っていたと言われている。

               世田谷区教育委員会

 六郷用水の取水口は現・狛江市和泉にあり、岩戸・猪方・駒井をぬけて、世田谷の喜多見に至る。その後は、大蔵・鎌田・岡本・瀬田・宇奈根・下野毛から大田区の上沼部(田園調布)へと流れる。狛江で取り込んだ多摩川の水に加えて、狛江・鎌田・岡本では、それまで自然流下していた野川、入間川、仙川、谷戸川などを逐次合流(水圧を上げる工夫か?)させて世田谷区から大田区に入り、鵜ノ木村の下手で北堀(幅七尺(約2m)の水路は池上・新井宿・大森方面)と南堀(幅八尺(約2.4m)の水路は矢口・蒲田・六郷・羽田方面)に2筋に分かれる。

 用水の開削作業は各村の負担を考慮して左岸と右岸を3か月交代で行ない、両用水とも工事は下流から進められた。六郷用水では、道塚村(現・大田区新蒲田)境杭から工事に着手し、慶長16年(1611)全長24kmに及ぶ水路は、沿岸の村々から徴発された農民の手により15年もの歳月を掛け完成した。

 測量初めの当初、すでに58歳と高齢だった小泉次大夫吉次は、用水全長のほぼ中間地点の武蔵国橘樹郡小杉村(現・川崎市中原区、小杉陣屋町名が今に残されている)に陣屋を構え、多摩川の治水奉行としての本拠地とし、健康に留意してか狛江村にも奉行所を設けたり、各村々の名主の居宅を有効に活用し精力的に働いた。

ニケ領用水の全長、幹線水路だけで約32キロメートルに及び、60の村々(約2,000ha)の水田を潤した。この用水によって、かつての荒地は一級の穀倉地帯へと生まれ変わり、ここで獲れた米は「稲毛米」と呼ばれ、3代将軍・徳川家光の御飯料(将軍家御用達の米)になったほか、江戸の街では「すし飯に最も合う米」として大人気を博したそうだ

 この用水は目的が、主に大田区の六郷にあったところから「六郷用水」と呼ばれる。一方、世田谷では「次大夫堀」と呼ぶ場合が多く、「治大夫(じだいゆう)橋」や「次大夫(じだゆう)堀公園」の名称が使用されている。現在では世田谷を流れる旧用水は「丸子川」という一級河川に指定されている。

小泉次大夫の名前はかつて「次太夫」と書かれていた。しかし近年の研究(平成2年(1990)以降)で次大夫が実際に出した文書などには点がない(大)ことがわかり、以後「次大夫」と書いているが点ありの大がまだ一般的のようで、本稿でも引用によっては次太夫を残している

写真:左 取水口近くに鎮座する「水神社」     写真:右 この神社に向かい合うように児童公園があり、滑り台なのだろうか?用水が流れ出る情景を想像させられる。この記念碑?のすぐ裏が多摩川の土手になっているのでそんな気にさせられる

写真左の「水神社」に向かって左側が「六郷さくら通り」で旧用水の本線であり、神社前を右に向かう下り気味の小道は、その先の猪方用水につながり和泉村、猪方村、岩戸村を経て喜多見へ向かったと思われる

取水口の位置=論点整理

1、塩分があるかないか


「この場所で、私と逢ったのも何かのご縁。用水の取り入れ口ですか。それならば、この辺りになさいませ。もう少し上流、上河原になさいませ、上河原になさいませ」

「お前は一体何者だ?」

「私ですか?私は …… 」ス~ッと消えてしまった。

と、その時、一匹のボラが川面にひょいと飛び上がりボチャ~ンと大きな音をたててもぐってしまった。

「女、女、女、女、女 …… 」


 「ニケ領用水物語」という川崎側に関する資料に出てくる一説であり、次大夫が初期調査の為に上流「宿河原(現・宿河原堰辺り)」に来て、疲れて宿を探す中、一休みした石でウトウトしている時に、夢に女性が出てきたという話で、この話のミソは「ぼら」にあると思う。ぼらは汽水域に生息し、幼魚のうちは淡水域で過ごし、成長するに従い海水魚となる魚で、この話は多摩川の塩分濃度の分布を言っているように思う。

夢の中、河原で宿を求めた。その後、河原には宿、集落が出来た。それが今の宿河原だそうだ

 二子玉川の「瀬田貝塚」は縄文時代の遺跡だが、温暖化による「縄文海進」と呼ばれる時代、現在より海面が4m近く上昇して、海生生物が二子玉川近辺でも獲れていたらしい。又、平安海進では約0.6m高くなっているらしく、同時代、大田区の矢口を舞台にした「新田義興」騙し討ち事件では、死体もしくは首が約8km上流の兵庫島に流れ着いたとする伝説も、満月(新月)の大潮の時期限定では有り得るのかも知れない(あくまでも首ではなく死体で一時的に浮くそうだ)。

 いずれにしても現在の汽水域は、丸子橋下流の「調布堰」で間違いないが、およそ400年以上前の海面高の状態と、「堰」など何もない時代、果たして成長した「ぼら」は「宿河原」まで行っていたのか、美しい女性(おそらく)は塩の境目を見切って上流の「上河原」を進めたような筋書きだ。江戸初期は現・日比谷公園辺りまで海が入り込み、後に東海道となる現・京浜第一国道(15号線)がほぼ武蔵野台地の縁辺を通り、都心部では海が近く(明治の汽笛一斉では海の上に線路が引かれている)、大森辺りから三角州が広がる多摩川の河口でも、今の大師橋(当時は勿論ない)辺りに来ていたかどうか、又、暴れ川の多摩川でも河床勾配(川底の下り様)は府中辺りから非常に緩やかで、これは多摩川に特徴的な事だそうで、大きな石が見当たらない河口付近では、多摩川特有の砂利が多く遠浅の海岸線が形成されていて、海水が遡上しやすい地形ならば「ぼら」は乗ってきているかもしれない。

2、六郷に水を届けろ

 現在の六郷用水の流路を示している「丸子川」を見ていくと、多摩川と急接近している所がある。主目的の現・大田区内の灌漑の為なら、こうした例えば世田谷野毛(等々力)、丸子橋(田園調布)などで取水すれば、塩水混入問題は脇に置いても、もう少し工事が楽だったのではないか。そもそも、上流の地域は主たる灌溉地区になっていないという側面がある。だから・・・という疑問、塩分混入は絶対避けなければならないとして、六郷用水の最大の肝は「大田区に女堀の呼称が残されている」事実であり、実家の家業から得た用水開発の技術的な視点、土地の高低問題を次太夫は見抜いていた。

「女堀」呼称が伝えられている所

①上野毛地区の労働意欲促進策としての女性活用(両用水に共通する?)

②ニケ領用水、 夢枕に立った女人から用水の取り入れ口を告げられた(両用水に共通する)

③浅間神社(多摩川台公園前)の丘近くを工事しようとした時、夢に現れた女神(木花開耶姫命…浅間神社の祭神)のお告げがあり、丘を切り崩さずに工事を進めた

④用水開削中の最も難工事であったのは、光明寺裏山の掘割だった。その土地は高く堅くなかなか堀り進むことができなかった。そこで女人もまじえておもしろおかしく張り合いをつけた

 ②と③はよく聞く伝承だが、後日談の場合もあるので結構核心をついている。①と④は情報を付け合せると女性を加えることで男性のやる気が出たらしい。老練な次大夫ならではの人心掌握術と言ったら大袈裟か。10人に一人充てという事のようだが、例えば女性を二人にしたら工期は半分になっていた?未開発の土地でまだ人口も多くはなかった中で、各村?10人あるいは(11人)と言うのはギリギリだったのかもしれない。

 ここで問題になるのは、③と④の「高い場所」であり、用水の後半にあたる現・大田区地域になる。浅間神社辺りと鵜の木の観蔵院辺りで、その周辺の前後の標高に比べて2~3m高くなっている所があり、ここを基準として上流からの高低差を計りながら計画を進めたように思える。

 想像してみよう。当時は竹籠に石を詰めた物を積み上げて堰き止めていたようだが、当時の川面は今より高く陸地との境には簡単な堤防のようなものはあったかどうか(多摩川は幾度となく氾濫しているので何らかの備えがあったと思う)、川幅は少なく見積もっても恐らく100m以上はあり水も滔々と流れていた。堰き止める長さはどれぐらいだったのだろう。いずれにしても当時の工事力では、今の「ニケ領堰(ニケ領用水)」のように川を全面的に堰き止めることは出来ないとすれば、実態は大きな流力を得るというより、流れをわずかに変えて小さな支流を自然流下で作るというのが順当だったと思える。(ニケ領用水の場合はこんな妥協は出来なかったのではないか)そして当然ここまで来れば塩水への心配は無用となる。

3、次大夫の真価、土地を見極めた

 「武蔵野台地では2種類の発達した河岸段丘が見られる。ひとつは南側を流れる多摩川によって形成されたものであって、最も低い段丘(低位面)を立川段丘、それよりも一段高い段丘(高位面)を武蔵野段丘と呼ぶ。」

 多摩川左岸は武蔵の台地のはずれとなり、一目でわかる国分寺崖線の段差(平均10mぐらい)に比べ、下部の段差は狛江と喜多見付近まであり実感できないが、実は同地域が「立川段丘」の端っこになっている。

① 多摩川左岸の標高差を見る

東京競馬場    河原 43.5m  甲州街道 54.4m   国分寺駅 73.2m

ニケ領上河原堰   〃  27.8m      34.9m   神代植物園近く 42.5m

六郷用水取水口   〃  22.4m       30.8m   桐朋学園大 47.6m

宿河原堰      〃  20.0m  水道道路 21.5m   成城3丁目 41.9m

和泉多摩川駅       〃 22.1m   狛江駅  22.6m   喜多見駅 23.1m

宇奈根氷川神社   〃 17.0m   宇名根観音寺 16.7m  大蔵永安寺 16.3m

上流から下流に向けて、各地点で南北のほぼ同一線上の標高を比較=立川段丘(左・中赤字)と武蔵野段丘(右青字)の関係性を見る

② 六郷用水(取水口)下流の主な標高=立川段丘の様子

中和泉1丁目(田中橋付近)  24.2m

岩戸北3丁目(一の橋付近)  22.6m

喜多見7丁目(野川合流近く) 20.9m

喜多見5丁目(新井橋付近)  17.0m

喜多見で立川段丘が終わっている

③ 大田区困難個所標高

1、浅間神社下  7.2m     2、東海道新幹線下  8.7m

  東急目黒線 10m         観蔵院     11.5m

  中原街道下  8.9m       女堀の碑     9.5m

                    環八(南北引分) 7.7m

 次大夫が目を付けたのは「立川段丘」(当時はこんな名称は無かっただろうが)の最後の高低差。①の取水口から段丘の縁(へり)まで約5mあり、更に凄いのはこの縁(へり)前後で第1段として野川が合流、第2段は入間川合流、そして仙川、谷戸川まで次々と自然流下の川を合流させ水圧が増すようにさせている。単純な偶然とはとても思えない。

 用水の川幅は喜多見で3間(約5.4m)、世田谷(大蔵)で二間三尺(約4.5メートル)あり、左右に二間約3.6mずつ土揚敷(どあげしき)が設けられていた。ところが、大蔵から鎌田・岡本にくると「国分寺崖線」の崖があるので、自ずと水路用地も限られ水路幅が狭くなっていく。土揚敷も片側だけにならざるを得ず、この環境を計算したのかどうか、いわゆる「連続の式」(川幅が狭くなると流れが速くなる)が行われていて、大田区の高くなっている部分に向けて、水の勢いを増すような構造が出来ている。約2mの高さを克服し、自然流下が可能になる高さまで困難部分の掘削の量は考慮されていた。

写真:左 大蔵の六郷用水の様子(昭和初期頃か) 写真:右 現在の丸子川本流、堂ヶ谷戸橋付近、直ぐ上流は水神橋で大蔵となる。ここは何故か現・丸子川でも一番狭くなっている所で、道路を新設する時に川幅を狭めたか、丸子川に切り替わったときに仙川左岸の湧水を水元としているので、水量も小さく上流域は元々狭かった?いずれにしても「連続の式」の仕組みが理解し易い

玉川上水が偉いと言っても(蛇足)

 承応2年(1653)の着工から8ケ月で全長43km、標高差92mの緩勾配、自然流下方式による導水路、羽村取水口から四谷大木戸までの素掘りにより完成させ、工事請負人の兄弟は褒賞として玉川の姓を賜り、200石の扶持米と永代水役を命ぜられた。

 家康の江戸入場は1590年、次大夫の用水工事開始が1597年。それから50年も後になって、徳川の支配力も増している中、標高差92mもありしかも基本「武蔵野台地」上の工事である。一方、六郷用水では取水口から下丸子の南北引分まで標高差14.7mでは一筋縄ではいかない。又、ニケ領用水と同時進行であり、多摩川下流用水(仮称)の全長は左右合わせて約55km、右岸・川崎側は多摩川の「北遷」後で多摩川自体が現在みられる流路に変わっていて、ある意味で平らに均されていたという幸運?があったかもしれないが、単独の用水として約20mの高低差で下流の広い地域に必要水量を届けるためには、恐らく取水口から大量に受水する以外に方法はなかっただろう。現在の川を全面的に堰き止めたニケ領用水の二つの堰は圧倒的だが、当然当時の思想を受け継いでいると思う。全面とは言わないまでも取水口の作業には、一段と苦労したと思う。

 次大夫も恩賞として本領のほか旧田、新田のうち10分の1を与えられている。植松姓から小泉に名を変えているのは一緒だが、改名に関しては家康に付き従った甲斐の武田攻めの頃と言われている(玉川兄弟に張り合う程の身びいきだが、過ぎる)。

 ともかく徳川何者?と思っていただろう村民を宥めながら、作業を進めた老人奉行の栄誉は並大抵ではないが、江戸もその後、発展し人口も30万人弱となれば、井戸水(塩水が多かった?)だけでは限界があり、玉川用水の必要性は比べるべくもなかったと思う。

コメント