平安の歴史を伝承する『鎌田』

 民話や小説を参照しているので、夢想しているという指摘があれば甘んじて受け入れる。ただ現実に物語がタイルで橋際に描かれているのならば、地元には受け入れられていると理解する。

 しかし歴史的な事象とした場合、ウィキペディア等が伝える制度的な枠組みから少し外れている所もあり、都から遠い地域であれば曖昧に事が進行したのかも知れないし、また、この物語の筋書きでは地方豪族の存在は感じられず、仮に豪族が存在したならば、間違っても「話し合いで決める」ということはあり得なかったと思う。

 二子玉川における平安の時代を伝える唯一の事績と思うので、中央集権体制が地域に及ぼした事例の一つとして取り上げた。

鎌田村のちぎりの椿​​

鎌田の村はここのところ多摩川の洪水もなく、田畑の作がらもよいので豊作がつづき、みんな大喜びです。
そればかりではありません。この地が多摩の屯倉(みやけ)になったので、田や畑にまく種も、作業をする鍬や釜までも、国が貸してくれるというのです。
鎌田村の老人たちは、口をそろえて言いました。
「世の中変わったものだ」
「家の者の名前まで、親切に調べている。なんでも、戸籍とかいうものをつくるそうだ」
それからしばらくすると、国からのお達しだといって、村の長のところに、「若い男の人を防人(さきもり)に出せ」といってきました。そのあと、いく日かすると今度は、「美しい娘さんを、都の御所につとめる采女に召す」というお達しが来たのです。
村の長は困り果て、村の世話役と話して、誰を出すかで大変悩みました。
そこで、村の若い男女を「田中の森」(注:1)の椿の咲くところに集めて、選ぶことにしたのです。
防人に選ばれた若者は馬を貰い、勇んで九州へ出発しました。(注:2)
采女(うねめ)に選ばれた娘さんにも、立派な袖付きの着物が贈られました。ところが田中の森で晴れ着が空に舞い、春を告げる椿の咲く枝に袖がかかってちぎれてしまいました。娘さんは、それでも初めて見るあや絹の着物を持って都に旅立ちました。(注:3)
しかし約束の月日がたっても、防人に行った若者も、采女に召された美しい娘さんも、再び帰ってきませんでした。
鎌田の村では、二人を選んだ田中の森に集まり、椿の花を一つ二つと数え、帰ってこない人を思い続けました。それ以来、椿の花を決して手折ることなく、いつまでも召された人を偲んだといいます。

(注:1)​​田中の森について​​

 「田中の森」の場所は現在の鎌田4丁目付近になるのだろうか、地図で見ると「砧南中」近くの仙川に架かる橋が「田中の森橋」と命名されている。

 仙川は江戸時代には六郷用水(丸子川)へ流れ込んでいて、奈良時代なら尚更、国分寺崖線に沿って流れ下る位置になる。物語では鎌田は屯倉に指定されているといっているので、今も氷川神社裏に残っている仙川の水を南側に引き入れる「用水路」が当時から存在し、そうだとすれば旧「田中の森橋」は近隣の旧「天神森橋」と同様な小さな橋になる。

(現在、野川に架かる「天神森橋」(大橋)は、嘗てすぐ近くの清水川に架かっていたもので、旧「天神森橋」は暗渠化の後、欄干のみがアスファルトの中に残り「小橋」の姿を今に伝えている)

 昭和32年(1957)水害対策のために、野川に注ぐ放水路の整備が始まり、この流路変更の際に川幅が拡がり、比例して大きくなった現「田中の森橋」が架けられ、​​引き続き橋名に「土地の記憶」を残している。​​

(注:2)​​防人について​​

 大化改新(たいかのかいしん)、大化元年(645)の詔に初めて見られる制度。白村江(はくすきえ)の戦に敗れたことで九州の防備が必要となり、全国から「兵士」として3年交替で選ばれた。装備や、行帰りの食料は自分で用意しなければならず、旅の途中で倒れて死ぬ者も多かったらしい。天平2年(730)あたりからは東国の兵士に限られるようになり、武蔵国の農民にとっては大きな負担だった。延喜の頃(901~922)になると、九州に武士団が成立してきて実質的に消滅したが、東国の兵士の総数は約2,000名に達した。費用負担ばかりではなく、税も免除されない過酷な仕組みだった。(兵士といっても名ばかりで、物語に登場するような若い農民が兵士役を務めていたようだ)

(注:3)​​采女について​​

 大宝元年(701)制定の「大宝律令」では、采女を郡司の一族から出すことが定められ、少領以上の郡司の姉妹や子女のうち容姿端麗な女性が後宮(こうきゅう)に送られた。采女は下級女官だが天皇に直接仕える立場でもあり、寵愛(ちょうあい)を得て権力に近づける機会もあったが、当時は母親の身分も重視する時代だったので、地方豪族である郡司層出身の采女出生の子供は、中央豪族や皇族出生の子供に比べて低い立場に置かれることが多かった。

「紫式部日記」が変えた?「采女制度」の実質

 采女の制度は、大化の改新の前からあったらしいが、その形骸化については康保4年(967)「延喜式」の施行以降、それまで京の貴族にとっては宮廷努めが下品であるとされていたが、中央貴族の子女からも選抜されるようになっていく。

 紫式部(むらさきしきぶ)が成人し「源氏物語」の執筆が始まった頃(長保4年・1002)、夫、宣孝(のぶたか)と死別し、父、為時(ためとき)も「散位(位階のみで官職がない)」の境遇の時、まさかの藤原道長(みちなが)の配慮?で、一条天皇の中宮、藤原彰子(しょうし・道長の長女)の女房として仕えることとなった。(源氏物語の完成は、その道長の支援があったとされている)

​​ その間に、宮廷生活を詳らかにした「紫式部日記」は「王朝絵巻」を世間に知らしめたことにより、時代の変化に多少なり共、影響を与えたと言われている。 ​​

付足し① 紫式部の出仕につながる、父親の困窮

 「為時」は無官で生活は困窮していた。花山天皇(かざんてんのう)(在位984-986)の即位に際し、ようやく「式部丞(しきぶのじょう)」六位蔵人(くろうど)に任じられたことで、一族郎党の生計が成り立つこととなった。(​式部丞=文官の人事や学問などを担当する、式部省の三等官である。紫式部の「式部」は父の役職に由来している)​

 2年後、花山天皇が「實和(かんな)の変」で出家、退位すると、為時も停任し散位の生活を10年に亘って余儀なくされた。生活難から家人も一人、二人と去るような困難な時が過ぎた。この間、為時は就官の「申文」を提出し続けていたが、六位では国司にはなれず苦しい生活は続く。

 藤原道長が右大臣の時、ようやく従五位下・「淡路守」に任じられたが、為時の漢詩でその困窮を知った一条天皇は、食事も喉を通らず寝所で涙にくれた。この話が道長に伝わると、自分の側近の「源国盛(くにもり)」に内定していた「越前守」を為時に変更する。

​​​(為時の漢詩「​苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼​」)

 ​​​源国盛は衝撃のあまり病気になってしまい、同じ大国の播磨守に任じられても癒えずに死んだという悲劇の話である。道長の信頼を失ったと捉えたのかも知れない。

武蔵国を支配していた豪族​​​​たち

 采女(うねめ)」は、「地方豪族の出身者が多く、容姿端麗で高い教養を持っていたと云われており、天皇のみ手が触れる事が許される存在という事もあり、古来より年若い貴族の憧れの対象となっていた」と言われる特別の存在だった。定員は66名とされているが、全国の「郡」の三分の一から募集する決まりでも、推測される貢進数(献上)は定員を大きくオーバーしていて、別の職制や皇子女付きとなる例もあったそうだ。(​​なんか「人身御供」のような話でも、地方豪族としては一歩でも権力に近づく、一つの選択肢だったのかも知れない)​​

 上記の筋書きから、では郡司は誰で本拠地はどこなのか。この時期の“鎌田村”(「鎌田」という地名はまだなかった)には後述するが多くの人間が存在していたとは思えない。ましてや「民話」のように村人が集まって“鳩首”するという事は無かったと見ることが普通のような気がする。

付足し② 都への憧れ「土着」する貴族の存在

 紫式部「源氏物語」の「明石の君」の帖では、京を離れ任地に定住した貴族が、須磨に流され不遇をかこっている「源氏」を労うため、明石へと誘う。目的は娘をして今一度、京の表舞台に立たせたいという強い思いだった。京が総ての時代だからこそ、地方生活に満足していない貴族の感情が良く表されている。​ ​​

人煙、感じられる古代

 遺跡などの調査では、石器、縄文、弥生、古墳、飛鳥、奈良時代のそれぞれに住民の気配が感じられる。古墳時代の「野毛古墳」(二子玉川近く第三京浜国道の先)からは、「関東地方最古の鉄製甲冑(かっちゅう)や石製品など、多種多量の副葬品(ふくそうひん)が出土しています。」というような、大きな部族の存在も感じられるし、同時代後期の「武蔵国造の乱」の後に、无邪志国造(むざしのくにのみやつこ)と知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)が統合し、隅田川以西が「武蔵国」となったとする説に登場する「チチブ」という「国造」と、平安時代に関東を支配下におさめた「平姓・秩父氏」との関りはどうなのか、500年という長い時間軸の流れにおいては、是とも非とも言い難い。(素人の限界)

​ また飛鳥時代には、朝鮮半島の「百済」救済の為に朝廷は3万人以上の兵を送り、最終的に「白村江(はくすきえ)の戦」に敗れ敗走軍と共に、または独自に百済の民が集団で日本に流入し、ここ多摩川流域にも多数定着したという情報もある。(​​こうした人々の世話は、まだ国司がいない時なので誰があたったのだろう)

武蔵国における坂東八平氏(ばんどうはちへいし)の支配​​​

 昌泰元年(898)に平高望(たいらのたかもち)が、遥任(ようにん・上級貴族は任地に赴かない)国司が常態だった上総介(かずさのすけ)に任じられると、子の国香(くにか)・良兼(よしかね)・良将(よしまさ)を伴って任地に下向し、上総は元より、国香は常陸大掾(大掾氏(だいじょうし))、良将は鎮守府将軍を勤めるなどして、常陸(ひたち)国や下総(しもうさ)国にも勢力を拡大し、坂東に武士団を形成。

 「八平氏」には千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏などの八氏が挙げられ、この他、熊谷氏を中心とした武蔵平氏や、伊豆の土豪・北条氏に仕えた伊豆平氏(長崎氏)などがある。

八王子・横山党 橘樹(たちばな)郡等を支配した

 「横山党は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、武蔵国多摩郡(現・東京都八王子市)横山荘を中心として、武蔵国(大里郡・比企郡、橘樹郡)および相模国北部に割拠した同族的武士団である。」 小野篁(たかむら)(従三位)7代後の子孫孝泰(たかやす)が、延長2年(924)武蔵守となり、その子義孝(よしたか)が武蔵権守(ごんのかみ)となって土着し、横山姓を名乗った。

“鎌田村”地域の「郡司」は誰か

 後に武蔵国には国司が赴任し国領が点在しているので、鎌田村にも郡司もしくは豪族が存在したことは疑いようがない。地域全体がどう治められていたのかは判然としないが、受領(ずりょう)の子孫が土着し、または国衙在庁官人出身で残留した武士もあったようなので、都から派遣された役人を中心とした支配、管理体制の中で、地元の郡司としては、想像では「​​江戸氏・横山氏・熊谷氏」があげられ、秩父氏の流れの「江戸氏」、橘樹郡支配の「横山氏」、そして前述の「熊谷氏」が該当する。距離的には離れているので代官を置くなどして、税の徴収などの管理をしていたことが推定される。

貴族の時代は平和の時代

恵まれた島国・日本

 有史以来、着々と日本統治の体制を整えてきた朝廷は、飛鳥時代の「唐・新羅連合軍」との戦い(はくすきえの戦)以外の外圧もなく、兄弟喧嘩のような内部抗争への対応で凌いで、平安時代になると、更に安定した貴族政治が実現した。

 前述の「鎌田村の物語」では、長閑な雰囲気の中にも「戸籍」が作られ、「屯倉」になれば好条件が与えられたなどの生活情報や、「防人」や「采女」の供出問題等、平安貴族の地方管理やそれに伴う平和の時代の一端を垣間見ることが出来た。

​​ 平安朝のころの日本の人口はおよそ600万人で、平安京には約10万人が暮らしていて、その内、都の貴族は200人程度。律令官僚は全国に1万人を超えていたと言われている。「都が総て」の当時だったので、約200人の貴族が抱える家族や家人・郎党、そして1万人の役人とその家族・郎党の「栄耀栄華」保持することが、最大の関心事だったといっても過言ではなかった。

 地方の役人は、基本、現地調達だったから、突き詰めれば、平安時代は、この中央の「200人の貴族の暮らしを支える体制」だったといえる。貴族はみんな「藤原」だし、偶に「源」がいる。みんな親戚だし、いざこざには身内の諍いとしても多少は神経を使ったかもしれない。周辺国が生死をかけている中で、日本の貴族の時代は500年の平穏を得て続いた。

 しかし嵯峨天皇(さがてんのう)以降には財政上の問題からか、多くの皇子たちの臣籍降下が行われ、彼らは平氏や源氏を名乗り国司になると土着し、律令からいえば非合法ながら地主になった者が多い。この時代、中央政府(京都)での役職は限られていたので、地方に残った方が経済的にも安定したという現実的な事情もあったようだ。これが関東地方の源氏や平氏の一族であり、後にたくさんの支流が生まれた。

貴族の関心は現状の維持?

 200人を600万人で支える体制。しかも他国を侵略するなどの「野心」がなければ、自ずから管理も緩やかになり都に必要な物を送ったら、残りは役人と住民が食べられる範囲の生産でよい、という全く発展性のない地方の状態を思い浮かべてしまう。

 「多摩川」を中心とした地域は「崖上」では畑作が多く、「河川敷」は水害が頻発、水田の適地や耕作可能地も限られ、必然として人口密度は薄く多くの人を養える地域ではなかったと推量する。まだ、この時期には新田開発等の熱量も窺えない。実態として小規模生産者が点在し、管理者(支配者)は離れたところにいたので、当地域の支配者の存在はぼやけて伝えられていないということなのかも知れない。

参考資料 ウィキペディア、世田谷の民話、NHK大河ドラマ「光る君へ」、源氏物語・与謝野晶子

プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、まだ“新住民”の範疇で、環境の良さ、便利さをただ享受しています。
●でも二子玉川を散歩し調べてみると、殊の外、奥深い歴史を内包していることが分かりました。
●子供たちが歴史や文化を学ぶ機会は少ないようなので、ただ生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しいと感じ、いつか目に留まる機会を期待して、土地の物語を紡ぎます。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を 、出来るだけ“堀上げ” 整理することが目標です。

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