先頃、発生した千葉の大雨は、過去40年間の記録を統計学的に分析すると、発生確率は1万年に一回で、かなり珍しい現象だったそうだ(ウェザーニューズ)。それにつけても最近の大雨の頻発は、世界規模の気候変動のほんの一部であり、だからといってCO2削減だと前のめりになるのは単純に過ぎ、例えば世界中がコロナ騒動で活動を控え、家に閉じこもった時期の削減効果は、世界全体で年平均7%程度(国立研究開発法人海洋研究開発機構)だったそうだ。それでも産業革命以降でかつて無い減少だったそうで、世界中の街から人が消えて社会活動が停止し、それに伴う移動があれ程減ってもこの程度だったという(他県ナンバーが白い目で見られた)。
もしかして今盛んに喧伝される「温暖化」による激しい気候変動には、何か別の根本要因があるのに隠され、単純に化石燃料の利用過多に、その原因を押し付けているのではないか。そもそも、なぜCO2削減の必要を殊更に問題視するようになっているのか、これに対策する世界中の熱量が実は見当はずれで、徒労ということもあるのかも知れない。今こそ人類の英知に期待し、一旦、立ち止まって何が真の問題なのかを整理して頂きたい。兎に角、仮に無駄な努力なら、末端で翻弄される庶民としては馬鹿みたいで、今は冷静に、流されずに、個々人も疑問符を頭の上に見えるように立てる時が来ている。
あの時のような生活を10年続ければ、それはかなりのCO2削減となるのは間違いないだろうが、仮に目的と方法が正しいとして、あんな極端な状況でも〝わずかな〟削減効果でしか無いのならば、日常を営みながらの削減目標の達成は果たして可能なのだろうか(‘50年までに実質排出量をゼロにする=パリ協定)。冷静になれば、現在の潮流は自らの文明を否定しているような感じで、この努力の先では、自然の生態系の破壊が起こるような気がする。樹木の減少と鹿等の野生動物が増えているのは偶然だろうか。熊の出没は何故だろう?(肌感覚で、科学的にどうかは分からない)
コロナ禍での7%減少という数値は、世界的な閉じこもりのような状態で〝少な?〟という気がしなくもないが、歴史的にはずば抜けているそうだ。が、‘92年の気候変動枠組条約を実行に移すために、’97年の京都議定書では具体的な削減義務が定まり、日本=-6%、EU=-8%等主要各国に数値目標を定めたのは斬新だったが、気候変動への影響は少ないようで、更に10年前の「パリ協定」には中国やインドなども加わって、削減に向けて盛大な花火を打ち上げたが、それでもCO2の減少は困難を極め続け、嘲笑うかのように世界の気候変動による?被害は増大し続ける。つまり産業革命以降で、目に見えるように減少したのはコロナ騒動の3年間だけであり(国立研究開発法人海洋研究開発機構)、それまでの30年間の気候変動への対策は無力に等しかったように見られる。現在のわが国の対応は世界的には優秀なのかも知れないし、京都議定書を推進したという矜持を持っているようにも見えるが、蟷螂の斧、ほとんど効果を見ていないと断ぜざるを得ない。
虚心にかえって見直す時が来ている。世界に目を向ければ毎年約412万haの森林が、農地転用や開発で失われているらしい(グーグル検索)。その中には太陽光パネルの設置・開発も含まれているだろう。2酸化炭素を吸収する森林は、陸地面積のおよそ30%を占め、数十年前にはもっと多かったと思われ、思い返せばその頃の夏の暑さは、現代と比べるべくもなく凌ぎやすかった気がする。もしかしたら多額の資金を使う「再生可能エネルギー化」の推進より、「森林減少」を止め、より増やす方向に知恵と資金を転用することの方がもっと人類には有用な気がする。
かつて世紀末を迎える頃、‘90年代、石油があと30年で無くなると言われて、世界中が「オイルショック」になり大混乱に陥った。もう30年はとうに過ぎているが、まだイランでは「石油」を武器に、世界中を別の混乱に陥れている。ローマクラブとかいう国際的な有識者会議や日本の放送なんかでしたり顔していた有識者は、あの時の混乱で何らかの利益を得ていたのではないかと疑う。コロナ禍への過剰な対応や、CO2削減に前のめりの姿勢、国際や国連が絡むとなぜか利害が生じ、誰かが利益を享受し無縁な人々は翻弄される。そんな社会構造が今の国際という枠組みの姿のように思えてならない。
また同じ頃、フロンガスによるオゾン層破壊の問題も提議された。二酸化炭素(CO2)の数百倍から1万倍以上の温室効果があるとされ、日本でも一頃、お約束の騒動となり、オゾン層保護法に基づくフロン排出抑制法・家電リサイクル法・自動車リサイクル法の制定など早々に対策が進んだ。そして、いつの間にか話題にのぼることも無くなり、残されたのは、家電や自動車の再利用、廃棄費の個人負担。その後、オゾン層がどうなっているのかは、全く情報提供されていない。
身近な倒木現象
CO2削減の為に費やされている近年の、一種、信仰的な行政機関の(民意に諮らない独断のように見える)努力が、もしかしたら〝与えられた環境〟に順応しようとしている植物にとっては急激な変化であり、コンクリート化で水を失いつつある中でも、その生きようとする健気な努力に影を落とす。「主食」とも言うべき「二酸化炭素」がこれまでの工業化により「過多」だったとして、人間の糖尿病にも似た負担がたとえ木に掛かっているとしても、自然の生物は「今ある」環境に順応しようと懸命に変化を試みる。木も同様だ。そういう流れの中で「主食」が〝急減〟したことが、いわゆる「代謝の低下」に繋がっているのではないか。ずっと続いた増加傾向から一気に7%減少した時に、繊細な自然的な均衡が崩れ、まだ長生きできたであろう老木の倒壊を早めることになったのかも知れない。
二子玉川でも残念ながら古木の伐採は行われていて、その主要因は、切り株を見た範囲では腐朽菌による空洞化があり、年数の経過した切り株を含めても数十本程度と思われ、それ以上に多いのは宅地化が要因で、自己流の表現で言えば、直接伐採(住宅建築)と間接伐採(周辺に危険が及ぶ可能性)とがある。切り株を見て芯がしっかりしているのを見ると、「100年の存在」が風景を構成していたその場所、足元には大きな切り株の姿、そして変化後に漂う空虚が、胸の痛みにつながる。
最近、ニュースに登場していた「クビアカカミキリムシ」は、バラ科樹木に被害がおよび有用果樹(ウメ、モモ等)や桜に被害が顕著で、急速に生息圏が広がっているらしい。関東地方の自治体によっては、1匹につき50円か飲料水、又、別の地区では、10匹で500円分の商品券が貰えるという報奨制度も始めている。テレビの向こうで、女性アナウンサーが見つけたら「踏みつぶして」と言っていたが、その強い表現が印象に留まっている。

二子玉川の東隣の「等々力渓谷」では、令和5年(2023)に渓流と遊歩道をふさぐ形で倒木が発生し、調査の結果50本以上の危険木が見つかり、3年近くかけて点検と改修工事が行われた。矢沢川の浸食に伴う両面の急斜面と左右の崖上は住宅や道路であり、天然水が減少している所で猛暑による水揚げ不良と、カシノナガキクイムシが媒介する病原菌(ナラ菌)による「ナラ枯れ」等が原因とされている。
西隣の「砧公園」でも、令和8年(2026)さくらやコナラの倒木が相次ぎ、けが人が出たために幹回り60cm以上の約5,000本の樹木の緊急点検を始めた。今でも公園は立ち入り禁止場所が広い園内にたくさん残されて、事件現場のような物々しさで落ち着いていられない現状がある。今のところ(約)260本が伐採され、(約)千本が診断待ちという。(正確な本数が示されていないようだ)

開園後60年以上が経過し、桜は寿命が60年程度とされているので、倒木も必然の帰結とも言えなくもないが、専門の点検員の調査では、幹の腐敗や打音の異常がなかった木々だったそうだ。駐車場横のヒマラヤ杉も同様で、共通する原因として根の腐朽、土被りが厚く空気の不足、雨による地盤の軟弱、それらにより「根返り(根元ごと倒れる)」に至ったらしい(東部公園緑地事務所)。切り株を見て歩くと、空洞化しているものは限られるような気がする。
こんな森林公園のような所で100本単位が伐採されてしまう状況は、等々力渓谷の傾斜地や他の街路樹などとは違う様相を人間に伝えていると思う。超自然的な現象として植物が互いに意思を伝えあい、ある時に一斉に枯れてしまうという現象を聞いた覚えがある。そんな馬鹿なと思いつつ、しかし正しく恐れ、植物に向き合い、寄り添う大切さが必要だと思うこの頃。


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