三島から二子玉川へ通じるもの

 三島は、鎌倉幕府を開いた源頼朝と北条家の縁が結ばれた地で、三島大社では昭和23年(1948)から「頼朝公旗挙げ行列」が、夏祭りの一環として続けられている。鎌倉時代以降、この地は東西の権力構造の結節点となり、様々な物語が繰り広げられ、日本の政治力学が西から東へ移る、その扉が開かれた場所でもある。そうした流れを踏まえて、同地には「長崎」という地名と長崎神社があり、加えて「玉川」という地名もある。そして、二子玉川には小田原北条氏に連なる「長崎氏」一族が、今でも町の中心で活躍しているので、あるいは源平の軋轢や政治のもつれの末が、いろいろな事象を尋ねる中で二子玉川においても、多少の差はあるにしてもその痕跡が実感されるかも知れない。

三島大社の〝奈良の鹿〟

先ず、大阪の鹿騒動から

 今年の3月頃、大阪の街に1頭の若い牡鹿が出現し、話題となった。世情では熊が人間に突進し恐怖を与えている中だったので、数日間、市内の各地を移動した優し気な鹿には、「人気者?」的な評価もなされ、良く出来たもので自らが大阪府警の施設の敷地に出頭し、保護された。そして一先ず、大阪府の斡旋で「能勢温泉」の施設に収容され、人慣れしている状態から「奈良の鹿」だと見込まれたが、奈良県では「他県で捕獲された場合は引き取り困難」と表明。鳥獣保護管理法がそうなっているらしい。

 国の天然記念物とされているにも拘らず、何かつれない気もしなくはないが、地元の奈良では鹿の増加等問題が山積し、迷い鹿をわざわざ引き取るという状況ではなさそうである。戦前いた900頭が戦時中には100頭まで急減する局面があり(糧難から食べられたという噂もある)、戦後になってから天然記念物指定(1957年)が実現し保護活動に弾みがついたのか、約20年後には約1,000頭にまで回復、そしておよそ60年過ぎた2023年の頭数は1,200頭ぐらいと言われているので、戦後の急速な増加と比べると、何らかの措置により個体数の増加は抑えられてきたようだ。(天然記念物に指定されたので、江戸時代の駆除のような手段は取れない

 とは言っても増加の傾向は間違いなく、’25年の調査では1,465頭と短期間に増加し、こうした中、鹿社会の生存競争が増しているのか、はみ出るように域外に出ざるを得ない実態もあるようだ。有力な牡が複数の雌を抱え込む習性なので、若い牡鹿は代替わりを待てなかったのかも知れない。

大阪の「奈良の鹿」

 大阪では「シカやん」と愛称が付き、鹿せんべいをよく食べ人馴れもしていることから、間違いなく奈良の鹿だと引き受けた人も言っているそうだ。もしこれからも鹿が来るようなら、大阪府に「奈良の鹿公園」が出来るかも知れないという笑い話も出ているらしい。周りの県でも同様な施設が出来たら、近畿圏に奈良の鹿公園が林立、なんて冗談も真剣みを覚える。奈良の山の中では交雑が進む実態もあり、「神鹿(しんろく)」の遺伝子を有する群れの神聖性の危機も叫ばれている。しかも外国人が大量に来て、物珍しさで「無尽蔵のようなエサやり」などで、冬を越せずに死亡する確率が小さくなり、更に増加に拍車がかかり旅に出ようとする鹿が多発、鹿も旅の空、しなくてもいい苦労を重ねるのかも知れない。

 しばらくして「大阪市内で保護された迷いジカ「シカやん」の遺伝子検査の結果、奈良公園周辺のシカと同じミトコンドリアDNAの遺伝子型であることが判明しました。」という結果も伝えられている。

奈良しかのまとめ

 2013年から国が、鹿の個体数を10年間で半減させることを目指した。と言っても奈良の鹿は枠外で、‘26年7月の調査(奈良の鹿愛護会)では、1,687頭と過去最多を記録している。「奈良の鹿」の主食は公園内に育つ芝草であり、この草の植栽面積から算出される適正頭数は800頭弱、倍に近い頭数がいて不足は明らかだが、現状それを埋めているのが「鹿せんべい」であり、成分は小麦粉と米ぬかが主原料で、添加物はなく束ねている紙も大豆インクを用いるなど配慮がなされている(売上の一部は奈良の鹿愛護会の活動費となる)が、本来は草食動物なので「芝」の絶対量が足らず慢性的な栄養失調状態からか、一般的な野生鹿より相対的に〝体格〟が小さい種に変わりつつ、一方で寿命が長いという特徴がある。まるで自らで飢餓状態に入り悟りを得る、修行僧のような〝境遇〟が、戦後はずーっと続いたのではないかと思う。1,000年以上続く固有種というのは、〝神聖性〟を高めその定めの中で、「何とも言えない」運命の枠組みにより守られてきたような気がする。

固有種は守れるのか

 A地区(主に奈良公園平坦部)B地区(主に奈良公園山林部)C地区(緩衝地区、保護も駆除もしない(理想))D地区(年間駆除上限180頭)に区分し、C地区D地区では既に他地域の系統の鹿との混血が生じており、奈良公園中心部からおよそ10km以上離れた地域になると、ほぼ他地域の系統の鹿という状態で、鹿を保護するための施設、「奈良の鹿愛護会」が運営する鹿苑(ろくえん)では、C地区でわなにかかった鹿、雌雄半々270頭を「特別柵」で飼育している(農地に一度入り込むと繰り返す点で一生柵外に出さない=虐待を疑われたことがある)。又、奈良公園で妊娠した雌鹿を200頭、出産後落ち着くまで保護しているとのこと(妊娠出産期は気が高ぶっている)。

 こうした「エリア管理」の中で、繁殖期前後の雌鹿を隔離し、出産調整や避妊など行うという意見もあり、野生性の維持と抜本的な対策が、遠からず必要になるかも知れない。

三島の鹿の現状

DSC_0323

 三島大社の宝物館裏の神鹿園(しんろくえん)には数十頭の鹿が網に囲われている。SNSなどでは30頭ぐらいとか、20~30頭と言い、バンビが5頭うまれたとか、あるいは死んだとか出ているが、正確に数えている人がいないというか、公式な情報は見つからない。最近、見たブログの情報では2025年時点では約40頭になっているとあり、又、伊豆新聞デジタル(2026.8.2)の見出しでは「60匹(ママ)」とある。

 一時期、《静岡県の三嶋大社の境内にある神鹿園では子鹿が次々と餓死しています。十分な餌もなく現在30頭余りの鹿が栄養不足の状態にあります。この悲惨な状況の改善を強く求めます。》(ある方のブログ=2023)と流れてきたが、ここ数年何度か出向いているが、一見ではその深刻さは伝わってこない。

 売店で「鹿せんべい」が販売され、参拝者やその他(鹿推し?)の人があげるからか、鹿は網をものともせず噛むように求めてくる。奈良の鹿に比べ、網越しというのは不利な条件の元に置かれているようにも見え、言われてみれば、そこはかとなく瞳は悲し気に見えなくもない。奈良では野生という前提があり、「日常的な餌やり」はできないらしいが、観光客も多くせんべいをたくさん食べ、主食用の芝地の広さでは全体量が足りないと言っても、近くの森林にも自由に徘徊できる環境がある。一方、三島ではどういう管理なのかは不明だが、恐らく網で囲われている状態では飼育されているとしか思えない。およそ100年かけて、8頭が例えば30頭に増えたとした場合、単純計算で約5年毎に1頭となり、自然にしていれば生死を繰り返しても、も少し増えているような気がするので、何らかの管理(調整)がなされて来ていると推測する。

 ある人から「奈良の鹿が来た」と教えられ調べたら、三島大社には「神鹿記念祭」という祭事があり、大正8年(1919)3月22日、奈良の春日大社より雌雄8頭の神鹿を譲り受け、「神苑」に放った事を記念するもので、毎年3月22日に執り行われているそうだ。神社の律義さに基づく永続性というのは、日本人の精神性に大きく影響を及ぼしているとの実感を強くする。

そもそも「鹿島の鹿」が奈良へ来た

 次に奈良の鹿を探ると、「奈良時代の神護景雲2年(768)平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建された春日大社(当時は春日社)に、祭神の武甕槌命(タケミカヅチノミコト)が現在の茨城県にある鹿島神宮から白い鹿に乗って、奈良の御蓋山(みかさやま)へ降り立ったという伝説があり、この時から奈良では鹿を「神使(しんし)」としている。

 元々、鹿島神宮は藤原氏の氏神であり、倭建命(やまとたける)の東征に随行した中臣氏(なかとみし=代々祭祀職)が、東国の基盤を固めるために定着して鹿島神宮の祭司となっていた。各地で戦いを繰り広げていたので、「武甕槌命」という軍事を司る最強の武神を祀っていたのかも知れない。

 中臣氏の末は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が起こした「乙巳の変(いっしのへん)」という非常手段で権力を握り、大化の改新を通して天下を安定させた。鎌足が亡くなる前日、天智天皇から叙位(じょい)が行われ、そして「藤原の姓」も賜った。以後鎌足の子孫は、中臣本系を離れ藤原姓を名乗り、その末、藤原永手(ふじわらのながて)が春日社を創建し、その際に祖先が崇拝する鹿島の武甕槌命、香取の経津主命(ふつぬしのみこと)と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)を主祭神として創祀(そうし)しているのを見れば、一族の結びつきは健在だったといえる。

 藤原氏に関しては平安時代の印象で宮廷貴族の雅を思い浮かべるが、東征や奈良時代は乙巳の変など、祖先は戦いをいくつも潜り抜けている。この武神を祀る春日大社も、藤原氏の氏神であることは言うまでもない。

奈良の鹿の現状

 現在では国の天然記念物となり、前述の2023年の時点で約1,200頭が奈良公園の周辺で生息していて、伝承に従い単純計算すると1300年近くかけて、1年1頭程度の増え方となる。もっともこんな計算通りとはならず、鹿島神宮から何頭の「神鹿」が来たかにもよるが、放し飼いが伝統だとすれば地域の鹿も一体となり保護され、そしてある時期には柵で囲われていたのかも知れない(江戸時代は域外の鹿が駆除されていた)。1,000年以上も同系統の遺伝子のグループが野生の状態で存続された事実、そして奈良の市街地のあちらこちらに出没し、かなり広い面積に生息、野放し状態が原則とすれば、どうやって爆発的な増殖が防げて来たのか。自然の生死と餌の不足だけで説明がつくのだろうか。

 現在の適正頭数に対して倍増という現実は、看過できずに関係者を悩ませている事だろう。大阪の「奈良の鹿」はこうした現状を提起しているような気がする。

 因みに‘25年度の交通事故発生数は85頭(前年比+16)、内、死亡頭数は43頭(同+4)となっていて、頭数増に比例するように、事故も多くなる事は許容範囲内といえるのだろうか。

奈良の鹿の実態調査

 「福島大学などの共同研究(DNA解析)により、奈良公園の鹿は、紀伊半島の他の地域に住む鹿とは異なる独自の遺伝子型(B1グループ)を持っています。約1000年以上前から周囲の集団との交流がなく、絶滅することなく奈良の地でのみ生き残ってきたことが判明しました。(2023年)」

 心配される奈良の鹿の近親交配リスクに関しては、これまで特に問題になっていないということであり、恐らく神に守られ劣性遺伝子は淘汰され、優性遺伝子が伝わって来ているようで、それは同じように「三島の(奈良の鹿)」にも当てはまっているようだ。

コメント