二子玉川の鎌倉街道

都立「砧(きぬた)公園」概略

 瀬田5丁目と岡本1丁目・3丁目の西側、今では東名高速道路が町境となり、その向こうには「都立・砧公園」があり、広い緑地帯の中には子供の為の公園もあり、多くの家族連れがゆったりとした時間を過ごす光景が見られる。

 地番で見ると南三分の一を占める大蔵4丁目には、国分寺崖線の下、仙川に挟まれた所に数えられる程の住宅はあるが、「町」の全体は世田谷区の総合運動場と野球場、テニスコート、温水プールなどの運動施設が展開している。その南面の仙川が開削した国分寺崖線の崖と樹林帯は遊歩道で、その中に「砧あそびの杜プレーパーク」があり、一画にはアスレチック広場もある。

 東西を貫通する大蔵通りを挟んで北側の大部分が緑地公園であり、人が住んでいないので町名というより、寧ろ地名と言った方がふさわしい所、「砧公園」という区分名が付けられている。ここでは季節ごとの植栽が楽しめ、芝生や草地で思い々々の過ごし方が出来る。子供用の遊具も要所々々に設置され、年長の子供向けには‘20年に「みんなの広場」が登場、各種遊具は休日なら順番待ちの行列ができている。障害を持つ子への配慮もなされている。又、北西の一画には世田谷区の美術館がある。

 この公園の北面の境は都道「環状8号線」となり、東の境は前述の首都高の終点から「東名高速道路」へとつながる高架道路となっている。

 蛇足ながら、高速道路ができる以前の当該地はゴルフ場で、二子玉川駅からおよそ直線で3km北東には駒沢ゴルフ場、約2km弱東南には野毛ゴルフコースがあり、二子玉川に別荘等を構えた著名人が通い、またそれを目当てに移り住むという環境が暫くあった。

 本稿はそれ以前、古い道が数本通り国分寺崖線の台地上に集落が点在し、樹林や畑地が広がっている頃、鎌倉に幕府が開かれ、主役たる東国の武士たちの移動が盛んとなっていった。この頃の領域の感覚は現在ほどかっちりしておらず、鎌田と大蔵につい近年まで、数多い飛び地が混在したような状態が崖の上にもあったようだ。住民は自分の見渡せる範囲というか、耕せる範囲で生活していたように思う。「砧公園」という場所では、現在でいう大蔵、鎌田、瀬田、岡本、あるいは用賀などの地名が古い地図に記載されている。

 後北条氏から派遣され、その後定住した瀬田の長崎氏を「大身」と呼ぶに相応しいかは別として、江戸時代には徳川将軍を迎え入れた程の地域一等の名主であり、その後裔の方が、「お爺さんが自分の土地を見回ると一日では回り切れなかった」と言っておられるように、現在の三本杉陸橋辺り(環八と世田谷通りの交差点)にも瀬田の地名が見られた。

昔の土地を想像しながら

左:明治45年世田谷地図より                     GoogleMapより

 二子玉川に近い鎌倉街道を考えてみたい。一つは間違いなく当地を貫く国道246号線(大山街道「矢倉沢往還」)であり、もう一つは現在の世田谷通り(津久井道)となるだろう。多摩川を渡る鎌倉街道は、埼玉県以北に武士が多かったことを思えば、府中を抜ける旧東山道を通るのが一般的だったと思うが、飛び地や飛び領地などの存在を考慮すると、関東地方各所から鎌倉を頂点とする放射状の経路が存在し、最低でも多摩川に存在した「渡し」の数ほどと言っても過言は無いように思える。

 岡本辺りの​​古老のお話では「現在の環八と東名道路の交差点を経て、岡本駐在所のあたりを通り、総合運動場の打越から永安寺、喜多見へと抜けた津久井往還の裏道などがその古い道だといわれています。」という指摘もある。ほぼ奈良時代から伝わる「品川みち」と二子玉川では部分的に重なっている。

現在も存在する「鎌倉街道」

 東名高速が無かった風景を想像するのは難しいが、現在にも残されている事物を頼りに想像してみる。

 関東においては、新田義貞が鎌倉攻めの際に通ったと言われている「都道18号府中~町田線」に、現在も地図上に鎌倉街道の名称が部分的に残されているが、実は世田谷にも街道名のつく道路があり、それは甲州街道の笹塚から下北沢を経由し、代沢の淡島通りまで続いている。これから岡本の古老の言う「二子玉川」の鎌倉街道を考察すると、笹塚の北方向の先は埼玉であり、その先で分岐して左が上野(こうずけ)の国(新田義貞)、右が下野(しもつけ)の国(足利尊氏)になるので、間違いなく下北沢の鎌倉通りは鎌倉へ向かう道であり、細かい道筋はともかくとして、関東方面からの鎌倉街道には三本の主幹線があり、その中のいわゆる「中道」に当てはまると思う。

岡本の第六天社跡が手がかりか?

 「現在の環八と東名道路の交差点を経て、岡本駐在所のあたりを通り」の記述に従えば、間違いなく第六天社は街道沿いだったか、限りなく近くに存在していたはずだ。現在の駐在所は移転していて、(今昔マップ)さんを尋ねたら、‘88年時点には第六天社の裏の道路を挟んだところに「×」印があった。

(写真:左)曲線の道路、樹木の向こうに道路が見られる (写真:中)ケヤキの切株か (写真:右)現在は岡本八幡神社の裏に鎮座する

 「谷戸坂」の第六天は、昭和39年(1964)区画整理の都合で、ご神体は「岡本八幡神社」の境内に移された。この時には2日の遷宮祭りを行い、ご神体の石碑は鐘や太鼓で賑やかに送られた。江戸時代に幕府が手を出さなかったように、現代の世田谷区役所も一切、手を出さずにわざわざ道を曲げて迂回させている。かつては「第六天の森」と呼ばれていた場所で、古くからこの森の木を切ると祟りがあると言われてきた。祠の移転に際しては、ご神木の伐採をせず、道路を「こぶ」のように曲げていて、この場所は、得体の知れない力が人間の活動を規制する例を、目の当たりにできる珍しい場所だと言われ、密かに注目が集まっているようだ。

砧大塚=修法の壇​

 砧公園内にはこの古道沿いに、「砧大塚」と呼ばれる小山が雑木林に囲まれて存在する。円墳のように見えるが古墳ではなく、鎌倉から室町期にかけて築かれた「修法の壇」(仏教の呪術を行った祭壇)であったと公園の説明書きにある。実際は東名道の下に存在したのを、道路建設の際に約50メートル北に移して復元されている。第六天を信仰した密教や修験道の存在の面影を今に残す。

​​第六天の森の伝説​​=​幕府も手を焼く

「昔この辺りは鬱蒼たる森林で、草木一本たりとも切ってはならない不文律の言い伝えがあった。ところが江戸幕府の命令で森の横道を広げることになった。当然、謂れがあるので村民は変更をお願いしたが、聞き入れられず工事となった。村人たちが斧や鉈で一斉に伐採をしようとしたところ、次々と怪我をしてしまう。この奇妙な異変が続くために、幕府も計画を諦め撤回したという。」

第六天さまのケヤキ

 むかし、岡本に第六天さまというお宮がありました。

場所は、東名高速道路の瀬田の入口の東側近くです。

第六天とは他化自在天ともいい、欲界六天の一番高い所で、ここに生まれたものは他の楽しみごとはなんでも自由自在に、自分の楽しみにしてしまいます。

この第六天さまは、魔王といわれ、大変おそれられていました。その祠は、いまは別の所に移転しましたが、ふといケヤキの木が5、6本あります。

ところで、この場所をいじったり、ケヤキを伐ったりすると、それはそれは、おそろしいたたりがおこると、いい伝えられております。たとえば。この場所へゴミを捨てていたら、その人の家が火事になったり、ケヤキの枝をはらったら、翌日、その人が死んだとか、おそろしいたたりがたえませんでした。

そのために、区画整理で道路にひっかかっても、この場所だけは、手が付けられず、いまだに、ケヤキの木が道のまん中で大いばりをしています。

第六天社は住民の素朴な御護り

 この第六天社に気を留めたら、なんと次々に別の第六天社が目に入ってきた。もしかして、住民たちは霊験あらたかなこの神社を、災厄を遮る境界にするという信仰的な思いから設置したのではないか。もちろん武士たちによる厄災を警戒していた事は想像に難くない。

大蔵の第六天社

 岡本から鎌倉街道があったとすれば、大蔵に入るには「ざとうころがし」という樹林帯を抜ける曲がりくねった旧坂を通る。幅は2m、距離は100m、高さ3m位の切り通しで、一面うっそうとした雑木林で、昔は追いはぎも出て通る人は怖くて転げ落ちるように通ったとか、「座頭」がこの坂から転げ落ちたなど命名の妙というか、面白い坂を下ると直ぐ仙川があり、どのくらいの川幅があったのだろうか、馬や徒でバシャバシャ渡ったのだろう。川を渡れば大蔵・殿山の新坂となり、坂の途中、右上の方向に小規模ながら「お社」を構えた第六天社があり、第六天社としては地域一番、岡本の石の祠と比べても別格の風情があり、坂を上る人々を見下ろしているかのような設えがあった。この神社も東名高速道路インターチェンジの設置が決定した為に、坂下近くの氷川神社に遷座している。

「この大六天社は天文6年(1537)この地に居館を構えていた石井良寛という人物が、小田原北条氏との戦いで戦死し、その霊を祀ったとの伝承があります。あるいは、ある土地を開墾したところ、火災が起きたため、火の神の祟りだとしておそれ、祀ったのが由来だという伝承もあります。」

各地の第六天社

地理院地図に書き込みしている

大(第)六天の謎​​​=​​「第六天」は鬼っ子、祟り神?​​

 第六天はヒンドゥー教のシヴァ神を仏教が取り入れたといわれるが、位置づけとしては欲界の六欲天の最高位に位置する他化自在天(たけじざいてん)であり、人々を楽しませることを以って自らも楽しむという性格があった。仏教の世界では人々を悦楽に耽るように仕向けることは、仏道の修行を妨げることになるので、魔王と考えられるようになった。煩悩の世界を抜けた「悟り」を目指すのが仏教だとすると、その対極である快楽や欲の世界のトップに君臨するのが「第六天魔王」とされている。​

 仏教界ではその強大な魔力ゆえに密教、とりわけ修験道で信仰された。蛇足ながら、比叡山延暦寺を焼き打ちし、本願寺(一向宗)門徒とも戦うなど、仏教勢力の制圧に乗り出した織田信長は、自らを第六天魔王と称したと言われている。

 明治以降の神仏分離、廃仏毀釈の流れで仏教から切り離され、神道における神代七代のうち神々がはじめて男女に分かれた第六代「面足命・惶根命(オモダルノミコト・カシコネノミコト)」の両神を、第六天として祀るようになったという説もある。

 大六天(第六天)というのは東日本にのみある神社で、関東の武蔵国を中心として、北は宮城から西は静岡までの分布。 あまり大きな神社はなく小さな社が多い。(ぼのぼのぶろぐ)神社庁の登録では「第六天社」となっているが、石碑や古い文献などでは「大六天社」となっている場合もある。強大な魔力をもつ第六天様が災難を除ける存在として信仰の対象になったり、神道の男女神と同一視されたことで縁結びや夫婦和合の神となったり、さらには第六天魔王が人間の1,600年を1日と数えて1万6,000歳の寿命を持つということから、長寿をもたらす神との信仰と、合わせて祟る神として恐れられたことなどから、お社は小さい規模ながら、地域での存在感は大きかったようだ。

用賀=第六天跡地に敬老会館を建て、お年寄の集まりを第六天会老人クラブと名付けている。元のお社は、少し離れた用賀神社へ遷座している。

「その第六天がこの近くに祀られていたのかと思って調べてみたら、用賀4−38にかつて第六天社があったことがわかりました。世田谷区民俗調査団編『世田谷区民俗調査第9次報告・用賀』(世田谷区教育委員会、1990年)には、ある土地を開墾したところ、火災が起きたため、火の神の祟りだとしておそれ、祀ったのが由来だという伝承もあります。」

「第六天様(大六天様)は「恐ろしい神」とされ、その御神体は大きな石である。祀られていた場所は農地にしても作物は育たず、事故もしばしば起こるようなところであった。敷地内の御神木を折ったり、根を切ったりすると、体の不自由な人になったり、死んだりするとも伝えられていた。大戦後は老人が楽しめる施設を建ててほしいという条件で区に寄付し、昭和35年(1960)そこに敬老会館を建設するにいたった。力石もあったが、これは昭和33年(1958)用賀神社境内に移しておいた。」

「敬老会館は用賀地区会館(用賀4-38)に生まれ変わっていて、玄関前に「第六天様跡」の碑が立っています。」

​喜多見=古墳の頂上に第六天塚の石塔が立っている。第六天塚古墳は、喜多見1丁目から4丁目にかけて広がる喜多見古墳群のなかの1基で、同古墳群で最大規模の円墳で、直径28m、高さ2.7mの円墳、周囲を幅約8mの周溝がめぐっている。

「五世紀末〜六世紀初頭に造られたものと考えられ、名称は、江戸時代後期に古墳(塚)の上に第六天が祀られていたことから。埋葬者については触れられていませんが、おそらく地域の豪族の族長墓と思われます。」​

若林=「松陰神社前駅」の近くに第六天社の鳥居と社(やしろ)が現存し、地図で確認すると二子玉川各地の大六天とほぼ直線につながるように見える。距離は約2.77kmであり、それぞれの第六天が街道の道標の役割を果たし、淡島通りまで通じた「鎌倉街道」の存在の傍証の役割を果たしているような気がする。

「松陰神社駅からも見える第六天神社は、白木の鳥居が映える小さな祠のような神社です。もしかしたら「松陰神社駅から見える?」と思う私のような人がいたら、駅のできるだけ下高井戸側に立って、線路から右手、松陰神社側に少しずつ視線を動かしてみてください。

小さな神社です。気づかずに前を通り過ぎる人も多いのかもしれません。それでも境内を綺麗に掃除する人達もいて、 世田谷線の安全を見守ってくれているような気がします。」

 こうして見てくるとこの直線の配列は、「いざ!鎌倉」の通り道だったとすれば、荒々しい武士たちの通行による災難を避ける、住民たちのささやかな「平穏への願い」という仮説も成り立つように思う。

旧鎌倉街道辺り

 瀬田交差点から岡本と大蔵の境まで、東名高速道路に沿うように「散歩道」のような小道がある。これは道路公団かあるいは地元の希望か、嘗て街道が存在した記念というか証、のような意味合いが込められていると見るのはうがち過ぎだろうか。

狛江・鎌倉橋

 雲松山 泉龍寺は狛江駅の北口にある。このお寺の東側に「弁財天池」があり、この湧き出る水が、狛江・喜多見・宇奈根の灌漑用水となり、今は枯れてしまったようだが、古来「枯れない池」で地域では重宝されていたようだ。このお寺の南側の道路に橋の欄干が埋もれている。大きさから判断すると用水の小橋のようだが、近くを津久井道だった世田谷通りが通り、喜多見の方から来た鎌倉街道はこの用水の流れに誘われながら、津久井道本道に合流したのかも知れない。​​※現在の弁財天池は平成18年に深井戸が完成し、水を蓄えている。

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