ニケ領用水の実情=その担った役割
天正18年(1590)は徳川家康が江戸に入城した年であり、偶然、多摩川は大洪水に見舞われている。「多摩川南流」が続いていた時代で、川崎市域(稲毛・川崎領など)の一部の土地を北側(左岸)に分断して、その流れは溝の口寄りになっていた(この時の流路がニケ領用水の導水に利用されたと言われている)。ところが大洪水により、幸か不幸か本流の流れが北側に変わり(北遷という)、現在の位置になるという状況だった。分断されていた土地の多くが川崎側に戻り、自然が起こした土地離れは自然により改善された(一部の分断は現代まで続いていた)。
(両岸とも現在にそれぞれの地名を残す。以降400年近く経過しても流れが固定されていることは、古多摩川から続いた「南進」が止まったと断定でき、明治以降の両岸の堤防建設がそれを確実にした。そして各村々の旧所有地は、それぞれ川を中心として整理されている)
(武蔵野台地は数十万年かけて造られた「古多摩川の扇状地」で、「多摩川下流用水(仮称)」の多摩川の三角州は、多年に亘った大地のドラマの南縁の地といえる。もし、この時の大洪水がなければ「真水」の必要は絶対なので、多摩川下流用水は現在の多摩川の流路辺りに1本貫いただけで済んだかも知れない。そうすると右岸には下末吉台地沿いに新たな用水が無ければ灌漑できず、川崎・大師付近の河口の位置にもよるが経済効率の観点から見放されていたかもしれない。大森・六郷に加えて川崎・大師の半分という「新地」となっていた可能性もあった。それでも広大なので「江戸の台所」たり得ただろうし、更には工事が単純化して工期の短縮も叶ったのかも知れない。幸か不幸かと思う所以)
こうした奇縁ともいえる「河身(かしん・川の流れ)」の変化により、川崎側では河川敷が均され、旧河川跡がそのまま利用できるなど工事をし易くし、東京側では国分寺崖線との狭間しか利用できないという選択の幅が限られ、工事を難しくすることとなった。
忠誠第一、幕府の屋台骨を支える
用水づくりを献策し奉行となった小泉次大夫は、ある意味で「処女地」に向き合った事になる。大洪水から7年が経過し泥まみれの状態は過ぎ、全体は草に覆われていた状態だったと思う。恒(つね)の洪水ではなく大きく土地が変わるような程の洪水は、村々の立ち直りも直ぐにとはいかず、しかも当時の多摩川沿岸の村々には家数が7~8軒ということなので、まだ途方に暮れている実態があったのではないか。
実家が駿河国富士郡小泉郷(現・富士宮市)で、鎌倉期以来「樋(とよ)代官」を歴任してきた植松家の嫡男として生まれ、治水工事に精通していたので〝邪魔もの〟がない更地のような土地を眺めて、志願した所から推察すると舌なめずりしていたと言ったら下品だろうか。「江戸の米蔵」実現を確信していたのか、あるいは戦国時代の余韻が残る時代、出世の機会と捉えていたのか。
慶長2年(1597)2月より両岸の測量を始め、慶長4(1599)1月から六郷用水(現・大田区・道塚村から開始)、6月からニケ領用水(開始地点は不明)の開削工事が下流から着手された。両用水の工事は、以後ほぼ3ヶ月ごとの交互で進められた為、別名「四ケ領用水(よんかりょうようすい)」とも「双子の用水」とも呼ばれている。当時、村の規模も小さく貧しい土地柄だったので、両岸の工事を分けて村民への過負担を避ける狙いがあったと言われている。
(2年を掛けた測量により、各地の工事は計算された数値に基づく厳密さが求められただろが、おそらく取水口辺りの工事は、送り出す水の量を計りながら少しずつ進められていたのではないか。この頃の取水口の堰き止めは、いずれも蛇籠(じゃかご)工法によっているので、取入れ口の蛇籠の用意・配置や圦樋(いりひ=水を受け入れる為の門、水路)の準備等が考えられる)
因みにこの時に作製された上河原取水口は、圦樋長拾間(18m)横三間五尺五寸(7.12m)高三尺五寸(1m)あり、同時期に多摩川に存在した取水口の中で最も大きい。又、後に追加される宿河原取水口も、圦樋長八間(14.5m) 横四間(7.8m) 高四尺(1.2m)と上河原堰よりは小振りだが、六郷用水に比し1.5倍大きくなっている。左岸の六郷用水は圦樋長六間(10.8m) 横弐間半(4.5m) 高四尺(1.2m)なので、農業用水専用という限定された用水の実状をよく現している。
骨身を惜しまず、命を削り
「慶長14年(1609)7月、ニケ領•六郷両用水の幹川(かんせん)工事が完成、翌年にかけては各村々への分水口や小堀の凌上(さらいあげ)を行い、慶長16年(1611)2月六郷用水、3月にはニケ領用水の全ての工事が終了。ニケ領用水は全長32㎞余り、灌漑面積60ヶ村1876町歩という工事だった。」
年間休日は年末・年始の20日だったようで、3ヵ月交代の村民はともかくとして、次太夫本人は無休で働くという熱心さであり、その完成の為に都合15年もの歳月が重なることとなった。58歳で工事に入り、終了時は73歳という高齢に達していたので、当時としては実に強健な人物だったようだが、それでも体力的には負担は大きかったろうし、その達成感は半端なかったように思える。
(家康は恩賞として本領のほか旧田、新田のうち10分の1を与えている。六郷用水下流の旧下袋村(現、北糀谷1・2丁目、大森南1・2丁目、東糀谷1丁目=六郷用水の恩恵を受ける地域)では、次大夫の孫が領主となり領民から慕われていたそうだ)
川崎にとっては「いのちの水」

ニケ領用水を象徴する堰「現在の上河原堰」
元和2年(1616)ニケ領用水を利用する村々では「稲毛・ニケ領用水組合」が発足。各村々には幕府によって選ばれた「用水宰領(ようすいさいりよう)」がいたが、広い灌漑面積を持つニケ領用水では、宰領の人数も多くなり度々の話し合いを通じて、次第に組合という組織へと発展していった。
完成当時、多摩川からの取水口は「中野島(現・川崎市多摩区布田35)」に設けられ、「南流時代の旧河道」と自然勾配を巧みに利用した自然流入で取水されていたが、完成後暫くすると131町歩(約130ha)の耕地が新たに開発されていて水不足が心配されるようになった。幕府は当初、中野島取水口の拡張を検討したが、下流の左岸・世田ケ谷領和泉村(現・狛江市)には六郷用水の取水口があり、それへの影響を慮り更に下流の宿河原村(現・川崎市多摩区宿河原)に新たな取水口を設置する事となった。この工事は関東郡代・伊奈半左衛門の手代・竹寛(たけひろ)助兵衛の手により行われ、寛永6年(1629)宿河原取水口の完成をみて、「多目的」ニケ領用水は今日に至る「取水口2か所体制」となった。
多摩川改修工事=近代化の始まり 田中丘隅(たなかきゅうぐ)
寛文2年(1662)〜享保14年(1729)。59歳の時に書いた「民間省要」が徳川吉宗の目に留まり、川除御普請御用(かわよけごふしんごよう)として幕府の治水事業に携わるようになった。
灌漑面積が拡大し水不足が頻発するようになったニケ領用水流域では、次第に水利秩序も乱れはじめ、享保10年(1725)5月、ニケ領•六郷両用水流域の村民に向けて「御座法書(ござほうしょ)=用水利用心得」を公布した。
「水上の村々過分の水を取り込み、残水を惜しげもなく流し捨て、水末の村々の難儀を事とも思わず」「川崎領•稲毛用水通りは近年段々不法に成り来たり、用水路の土揚場を欠き崩し、土手を切りつめ、勝手に竹木を植えて通行ができなくしている」と秩序の乱れを認め、直ちに多摩川改修工事にかかり、上河原(中野島)取水口や久地分量樋を始めとした、取水や排水に重要な施設を自ら設計・改修して問題の解決に力を尽くした。
絶えない水争い
江戸時代末期となると幕府の力も弱まる中、多摩川流域では水害が多発、享和元年(1801)からの約70年間で30回以上もの大洪水に見舞われ、生産物を押し流し農地に爪痕を残し、これの復旧の負担が農民達に重く圧し掛かっていた。幕府は文化5年(1808)12月に支配勘定役人・大田南畝(なんぽ)を派遣、「稲毛川崎用水の入口の埋れたるを見る」、またその復旧工事に幼い子供や女たちまで駆り出されているとの報告を受けたが、多摩川本体の抜本的な改修ではなく、個々の水害の復旧を目的とした工事に終始した。
そのうちに文政4年(1821)ニケ領用水史上最大の「溝口村水騒動」が発生する。その年は春頃から日照りが続く異状な早魅(かんばつ)で、特に用水流末にある川崎領の村々の水不足は極めて深刻であり、その上、溝口村と久地村では川崎領へ流れる堰を不法に止めたばかりでなく、水番人を追い払うなどの妨害を行っていた事が分かり、激怒した川崎領の農民1万数千人が久地の分量樋めがけて殺到した。幕府は騒動を引き起こした農民たちの他、十分な監督取り締まりをしなかったとして下役人の処罰を行った。
灌漑用水と水道用水の2役
安政6年(1859)6月、江戸幕府の幕を下ろす妥協的な措置で横浜が開港すると、寒村だった横浜町には国内外からの船と共に各地からたくさんの人々が集まり、急ぎ埋め立てた用地なので地下水は塩分を含み、数か所の井戸ではたちまち水不足に陥った。急遽、明治3年(1870)にニケ領用水•久地分量樋下流に分水口をつくり、新たに用水堀を開削して、横浜まで引水する計画が持ち上がった。用水の一層の水不足を恐れた農民たちは強く反対するが、神奈川県が灌漑用水に支障をきたさない計画を説明し実行となった。
(久地分量桶から下流の鹿島田堰(現、川崎市幸区)からの引水と維持管理費の大幅な軽減)
ところが通水後まもなく木製の樋管が破綻して漏水が発生し、その後も配管施設の整備・修理は続き、明治18年(1885)になると水源が相模川に改められ、鉄管による日本初の近代水道が誕生した。その為、ニケ領用水は再び組合の単独経営に戻った。
二ケ領用水改良事業=工業用水利用に向けて
東京の水源は井の頭池を水源とした「神田上水」と、多摩川を水源とした「玉川上水」(現、多摩・羽村市)によって賄われていたが、首都の水不足も深刻の度を増していた。大正2年(1913)東京市は「第1水道拡張事業」に着手、村山・山口両貯水池の建設と、玉川上水の取水口・羽村堰の改築を行った。一方同年、川崎市では東京湾岸の工業地帯埋立事業を開始、工業用水としてニケ領用水からの譲水を計画していた。しかし上流の羽村堰の改築による東京側取水量の増加もあり、下流の水不足の不安は増すばかり、工業用水としての利用はこの時点で望むべくもなかった。
その為、神奈川県は昭和2年(1927)「多摩川右岸農業水利事業」の為の調査を開始、密接な関係にある多摩川の支川、平瀬川(支流を含む)・三沢川の改修事業も合わせて統括する「多摩川右岸農業水利改良事務所」を設置した。
(同年、東京市は新たな拡張事業を調査審議するため、市長の諮問機関として東京市臨時水道拡張調査会を設置。小河内貯水池及び東村山浄水場の建設の方向性を出している)
(ダム建設に伴う涙の物語。この「小河内ダム・羽村堰のコンクリート化」建設問題は、配慮に欠けた東京市と理非曲直に基づいた神奈川県の頑強な抗議の狭間で、ダムの下に沈む「小河内村」の悲劇を生んだ。運命の昭和8年(1933)川崎ニケ領用水組合の抗議が開始される。不幸にも東京側では約束の補償金がもらえる年に当たっていた。首都東京の為ならと涙を飲んだ小河内村、「多くの村民たちが、一年以内に支払われるという約束の補償費、移転費を当てにして、金融機関から借金をして移転準備につぎ込んでいた。それが工事計画の頓挫(先送り)によって補償費は手に入らず、借金の利子は増えるばかり、当然、農業生産も止めていたので食べるものにも困り、高利貸しや悪質ブローカーが暗躍、娘を身売りに出し自殺者まで出し、村が荒廃した」。水という命に欠くことのできない問題で、関係者が理性を欠き、その狭間で翻弄される村人の苦難。誰もが必要に迫られ、思いが至らなかったという悲劇は記録されなければならない)
昭和11年(1936)から交渉の末の改良工事が始まり、上河原•宿河原両堰は一時的な蛇籠堰を改め、永久的なコンクリート堰に改造し、毎年多額にのぼっていた維持修繕費の大幅な軽減を図る。分水施設は各分水路ごとに所要水量の算定をし直し、施設もコンクリート造りとする。再利用水路を設け、上流地域より田越灌漑などで流下し、一旦、悪水となったものを再度灌漑用水に利用するなど抜本的な工事が行われた。
(この時代他でも良く聞く戦争の影響により工事は遅れ、上河原堰と各水路の工事が完成したのは昭和20年(1945)6月であり、宿河原堰は、更にその4年後となり、「ニケ領用水改良事業」は12年余りの歳月を要した。因みに小河内ダムの完成は昭和32年(1957)だった)

今の宿河原堰
近代のニケ領用水
一級河川になったニケ領用水
戦後の復興と共に、ニケ領用水流域も農業地帯から住宅地へと大きく変貌し、市街地を流れる公共溝渠(給水または排水の為に水が通る公共の溝)と化し、その管理権は昭和16年(1941)7月に組合から川崎市へ委譲、そして昭和46年(1971)には一級河川に指定された。
(多摩区布田の上河原堰の取入口から高津区久地の新平瀬川との合流点までを、「二ヶ領本川」(新川)と呼んでいる)
昭和49年(1974)9月、前項の多摩川右岸農業水利事業で改築された宿河原堰が大きな要因となり、「狛江大水害」が発生、民家19棟が流出する。この時、水の流れを妨げていた堰のコンクリート固定部を爆破、水の突破口を開けることで解決となったが、堰のコンクリート化が結果的に大きく影響してしまった。
平成5年(1993)5月、建設省は「多摩川河道検討委員会」を設置、堰管理者の川崎市や、流域住民等と堰改築について度々話し合いを行い、こうしたことを契機に、歴史的価値のあるニケ領用水も着目され、昭和60年(1985)から始まった川崎市による親水性護岸工事に刺激され、市民グループの結成、シンポジウムの開催など、ニケ領用水再生の為の取り組みが次々と行われる様になった。この盛り上がりが昭和63年(1988)年、ふるさとに恵みを与える川として「手づくり郷土賞」の受賞につながった。
小泉次大夫が手掛けた「双子の用水」
多摩川左右の村々は、あらゆる面で多摩川を挟んだ歴史を紡いでいるので、六郷用水のまとめに関連して取り上げている。六郷用水が農業用水専用だとすれば、ニケ領用水は川崎にとって「いのちの水」・・(農業用水→生活用水→工業用水→親水用水)と位置付けられ、間違いなくその果たした複合的な役割は比べるべくもない。
それぞれの熱量は今日に実態を現し、東京側では「忘れられた用水」と一部で呼ばれていることを踏まえれば、現状の僅かに残される親水公園的な姿(丸子川は立派な遺構であるが)は当然といえるのかも知れない。川崎・二子(ふたご)と二子玉川は歴史的には兄弟関係であり、川崎をお兄さんと見立てて来ているが、それがこの用水でも実証されている。兄は何という過酷な運命を担い、そしてそれを受け入れ維持し、誇りに転嫁させて来たことか。用水を大事にして来たからこそ、上述の「手作り郷土賞」につながったと思う。この点では、弟は恵まれ?故の「ぼんくら」と言い切れる。
小泉次大夫その後
「妙遠寺の開基は、川崎の大恩人である小泉次大夫です。次大夫は二ヶ領用水工事のための拠点を小杉村の小杉陣屋にとりました。慶長六年(1601年)代官に任命された次大夫は、付近の廃寺になっていた寺院を再興して「妙泉寺」と名付けました。慶長十七年大御所家康と秀忠が鷹狩りのために小杉を訪れます。この時家康の接待にふさわしい僧侶を安房保田(千葉鋸南町)にある日蓮宗本山の中谷山妙本寺より連中房日純が招請されました。日純はのちに秀忠の命により川崎宿砂子に寺院を与えられ妙泉寺の本堂をこの地に引き移して、長継山妙遠寺を建立することになりました。昭和二十七年、区画整理により、宮前町の現在地に移転いたしました。」
妙遠寺にて隠居生活を送った後、元和9年(1623)川崎宿が宿駅制定されたその年の12月、85歳で生涯を終えた。妙遠寺にある逆修塔(逆(あらかじ)め戒名をつける・冥福を修める)は、次大夫夫妻の生前の元和5年(1619)に建立された墓である。(元和元年(1615)夏の陣で出兵した長男の吉明の死亡。翌年、元和2年の家康の死去に当たり出家(追腹を切る方法に代えて)して「現世の死」として区切りをつけ、更に元和5年、代官職を養子の吉勝に譲り逆修塔を建て、自らが創建に関わった「妙遠寺」で隠居し、4年後に死を迎えている。
なお、このお寺には共に開削に携わり「次大夫一番弟子」の呼び名がある、石川駿河守吉久夫妻のお墓も祀られている。

【参照資料】 川崎区の宝物シート 二ケ領用水物語、六郷用水と二ケ領用水、「ニケ領用水」の実像、くにたち文化・スポーツ財団 多摩川絵図リーフレット、子安八幡神社石鳥居縁起、京浜河川事務所の多摩川の見どころ、多摩区観光協会、世田谷の河川と用水、川崎宝物シート、ウィキペディア、妙遠寺、かまにし17


コメント