大蔵の地名の考察
「二子玉川」の歴史を遡って、具体的な名前が出てくる最古の事例と言えるかも知れない。
7世紀後半 中央集権の支配体制
大化の改新・大化元年(645)により中央集権体制を推進した朝廷は、大宝元年(701)大宝律令を定め、地方諸国に国司や郡司を置き、国司は都から貴族を派遣する任期制で、郡司には任期はなく世襲も認められた。
全国を60の国に分け、各国には数個の郡を置き、更に郡を2~20の里(さと)に区分して、里は住民50戸程度だったといわれている。
武蔵国における二子玉川
「武蔵国(むさしのくに、旧字体:武藏國)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国。東山道のち東海道に属し、現在の東京都と埼玉県及び神奈川県の川崎市、横浜市にあたる。」全国13大国の内の一つ(7つの主要幹線道で区分されていた)。国衙(こくが=役所)は府中と呼ばれ、現・府中市にあり、「国領」という地名が狛江の先、甲州街道沿いに残っていることから、狛江から喜多見・鎌田方面は「天領」だったようだ。(「国領」という地名は、かつてこのあたり一帯の土地が、武蔵国の国府が管轄する国衙領であったことに由来している。)
二子玉川周辺は多摩川を挟んで、東京側が「荏原郡」、川崎側は「橘樹郡(たちばなぐん)」と呼ばれ、多摩川の流れによって所有する土地が動くなど、複雑だったようにも思われるが、律令体制は屯倉(みやけ)を基にした荘園の管理や、郡司という住民の代表的(支配者)な存在もあり、口分田の班給(わかつ)と租庸調のために戸籍のようなもので管理されていたらしい。ただ当時の住民の生活に関する情報は見当たらず、個住していたのか集落のようなものが点在していたのかもはっきりとしない。
また大化の改新後の「白村江(はくすきえ)の戦」の敗戦で、滅亡する百済から2,000人近い人が海を渡って来て(グーグルAI)、多くは東国へ移されたとされているので、多摩川沿いでは「調布」、「狛江」、「砧」などの地名がそういった人々の定住によっているらしく、百済人たちの集落も存在していたのかも知れない。(百済と倭国(日本)の関係は深く、滅亡した百済の再興を助けるために大軍を派遣しているのは一例、日本語が通じた関係のように感じられる。)
「大蔵」の地名の二説
【世田谷区のホームページ】では
「広大な村域を誇った大蔵村ですが、その由来についてははっきりしていません。古い話では、この地を治める石川朝臣豊人という人が延暦7年(788)に武蔵守となり、さらに大蔵卿となったことから、このあたりを大蔵村というようになったといった話が伝えられています。」
一方、次のような説も付け加えている。
「大蔵6丁目にある永安寺は元々鎌倉の大蔵ヶ谷に足利氏満(うじみつ)が建てたもので、二度の戦火で荒廃したものを遺臣たちが地名の同じこの地に再建したと言われています。この史実が後に村の名となって大蔵村という地名が付けられた。」
永安寺説はお寺の由緒では「鎌倉の所在地と同じ地名の大蔵に延徳2年(1490)寺を建立」したとあり、更に再建する適地の条件として「地名が同じ」としているので、再建当時には既に大蔵という地名だったことは疑いようがない。
国司由来説はお寺の再建に遡る約700年以上も前になることから断然有力となる。(長い歴史の事で断定は出来ないが、普通に読むとわざわざ2案を提示しなくても・・と感じられる。)
石川大蔵卿就任説は、国司は府中の「国衙」周辺に住むのが普通とみた場合、約10㎞距離が離れた土地の人々が、好き好んで国司の役職名を「地名」にするのかという疑問は、「「江戸名所図会」には延暦年間(782-806)武蔵国守兼大蔵卿の石川豊人が居住していたとする。」との記述ですっきり晴れた。
この延暦というと「奈良時代の最後の元号」で、延暦年間の主な出来事は以下の通り
3年(784) 平城京より長岡京へ遷都
16年(797) 征夷大将軍として坂上田村麻呂が東北地方の蝦夷を鎮圧
19年(800)‐21年(802)- 富士山が噴火(延暦大噴火)
23年(804) 最澄・空海ら入唐
国府・国司について
「国府(こくふ )は奈良から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国衙)が置かれた都市で、国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心」
「和銅3年(710)頃に、「武蔵国造(くにのみやつこ)の乱」で献上されていた「多氷屯倉(屯倉:みやけ、直轄地)」内の、現在の東京都府中市に国府が置かれた。これは、比較的早くから屯倉が設置され、また交通・産業上の重要度を次第に増し始めた武蔵国南部の多摩川中流域に面する点でも選ばれたと考えられる。重要な港は東京湾に面する品川湊(目黒川河口)、浅草湊(隅田川河口)だった。」
8世紀初め 国司の派遣
最初の国司(大宝3年(703)-和銅元年(708))として赴任したのは「引田祖父」(読み方不明)、冠位は従五位下であり、ようやく階級が上がり貴族となって「武蔵国」を受領(ずりょう)したようだ。
(平安時代の位階では、一位から三位までが「公卿」、四、五位は「諸太夫」で、ここまでが貴族、六位以下は「侍」、庶民は(無位)だった。)
8世紀末 第23代国司・大蔵卿
第23代国司(任期、延暦7年(788)-延暦10年(791))の「石川豊人(いしかわのとよひと)」(曾我氏流石川氏)大蔵卿が、大蔵の殿山に住居を構えた。
(大蔵卿(おおくらきょう)は大宝元年(701)に大宝令で設置され、近代までの日本にあった官職で、朝廷又は政府の財政をつかさどる大蔵省の長官。)
本当に「大蔵卿」は大蔵の地に住んでいた?

府中・国分寺という行政地名が現存していて、国府が府中市に存在していた事は間違いない。問題は、なぜ大蔵に国守兼大蔵卿「石川豊人」なる人物が居住していたのだろうか。
多摩川を挟んで現川崎側には「府中街道」があり、現東京側には「品川みち」がある。
人の往来が盛んだった府中街道は、高津・溝の口の現地を歩いて見れば立派な宿場町であったことが分かり、多摩川に沿ってほぼ直線なので、普通の人なら当然のように府中街道を通ったことだろう。
一方、品川みちといえば、現在は、現甲州街道から三軒茶屋を抜ける経路が大國魂神社の祭事(品川海上禊祓式)で利用されていて、旧古道に関しては現京王線に沿う経路が、線路の反対側に今でも名が残る「品川通り」に合流し、府中-国領から狛江、大蔵・岡本を経て、等々力、馬込を通り品川湊へ行く経路で、実態的には街道の役割は失っているものの、各所に古道の痕跡は残されている。
甲州街道が整備されるのは江戸時代であり、それ以前は、品川みち古道が甲州方面につながる経路だったようだ。かつては大國魂神社の祭事もこの経路だったと思う。この国領、狛江の経路は、何故今でも「品川通り(府中-仙川間)」の名が残るのか?
大國魂神社の祭事があり、加えて「受領」した国司の赴任や「租庸調」に関わる物資の移動の役には、府中街道の経路ではどこかで渡しを利用する必要がある為、その必要もない品川湊へ直接行き来できる「品川みち」が適していたのだろう。国司が通り、神社の神職が通るみちとして、歴史的な記憶が現在の道路名には込められているように感じている。
当時の「品川みち」は国領から狛江通り、喜多見を経由し、大蔵の「殿山」を巻くようにして、現東名高速沿いに用賀へ向かっている。
想像してみよう!「石川国守」が赴任する時、品川湊から馬に揺られ用賀まで来て、岡本の国分寺崖線の急坂(座頭転がし)を下り、舌状台地沿いに進み「殿山」を過ぎると、視界が大きく開けるのである。
馬込から用賀まで武蔵野台地の緩やかなうねりを感じながら来て、国分寺崖線が数万年かけて造形した土地の変化が、魅力的に映り気にいったのかもしれない。大蔵の先には「国領!」もあり、府中に落ち着いて、そうだ!居館は大蔵にしよう!となったのかどうか?夢をみるような想像。冷静に考えると別荘的なものだったと思えば合点もし易い。
『本稿の歴史的な事象に関しては、おおむねウィキペディアを参照している』


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