二子玉川という「地名」は存在しない=002
第一の視点 府中街道と品川みち
この地域を考えるときには、なんと言っても「府中」を外すわけにはいかない。特に川崎側では時代が進むにつれ、東海道経由で「府中街道」を行く人々が多くなり、それにつれて「二子(ふたご)」「溝ノ口」は宿場町として発展した。
一方、東京側の「品川道」は大國魂神社の「宗教道」という性格に加えて、主に「調(租税としての物品)」を大量に送る海上輸送のルート(品川湊」として活用された気配は窺われるものの、日常的ではなかったのか東京側は街道として発達せず、宿場が形成されるに至らなかった。
府中は武蔵国の国府
武蔵国(むさしのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった律令制国であり、「東山道」のちに「東海道」に属し(全国は官道七街道で区分されていた)、全国13大国の内の一つだった。国衙(こくが=役所)は府中市にあり、多摩川左岸の世田谷は「荏原郡(えばら)」、右岸の高津は「橘樹郡(たちばな)」と呼ばれていた。

(写真:左)大國魂神社の随神門 (写真:右)国府跡 大國魂神社は道路の向かいにある
国衙跡と大國魂神社の間には、「細馬(ほそま)」という短い道が通っている。朝廷に貢進する良馬(細馬)の試走が行われ、「延喜式」では50頭の馬を貢進することが定められていたそうだ
古代(7世紀)に造られた官道「東山道」に属する国は近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八カ国であり、「武蔵路(現鎌倉街道)」は上野・下野から「武蔵国」へ至るルートで「東山道武蔵路」と呼ばれ、中央政府と国府の間の文書・情報の伝達、都への貢納物や租税の運送、また蝦夷(えみし)征服においては兵士や武器を供給することなどにも用いられる等、重要な「官道」だった。
しかし、宝亀2年(771)都からの使者が「武蔵国府」へ行く場合、方角的には戻るようになるので、武蔵国は東山道から「東海道」の所属に改められ、「武蔵路」は都と地方を結ぶという公的な役割を失なったが、その後も、人や物の往来は絶えることは無かった。
功利的な国府へ通じる道
正規な街道「府中街道」
現在の府中街道は「東海道」川崎宿六郷から、多摩川沿いにへばり付くような細長い川崎を上流に向かって進み、「中原街道」と交わる小杉、「大山街道」と交わる溝口、「津久井街道」と交わる登戸を経て、やがて東京に入り、大丸(おおまる)を過ぎ、是政橋(これまさばし)で多摩川を渡り府中まで通じる。通過する神奈川、埼玉、東京では県道であり、川崎市高津区の国道246号線の交差から「東京湾アクアライン」経由で成田市までが国道409号線となっている。
古代の原型は多摩川南岸の低地に、武蔵国橘樹郡(丸子・平間付近)と武蔵国府(現在の府中市)とを繋ぐために形作られた交通路(街道)で、江戸時代に街道として整備されているものの、今も基本的に片側1車線の狭い道路のまま。又、多摩川の主要な橋ができるまでは、「渡し」を利用しなければならないという条件もあった。
「品川みち」の存在とは
品川道に関しては、甲州街道から三軒茶屋を抜けるルートや、今でも「品川通り」の道路名として残っている府中-国領から狛江、用賀を通り、目黒川を「品川湊」へ行くルートなど、いく筋の該当ルートがある。
起点は「大國魂神社」(国衙の隣)で、神社から東へ向かう「京所道(きょうづどう・きょうづみち)」(この辺りに国府の写経所があったことから「経所」がいつしか「京所」になったといわれる)を通り旧甲州街道に合流し、現在の「京王線・東府中駅」の先で甲州街道ルートと国領・狛江ルートとに分岐する。ちなみに国領・狛江ルートは現在でも、地図上所々で「道名」の表記があり辿ることが出来る。終着は目黒川河口の「品川湊」で、品川からの逆コースも、甲州街道が整備される前頃(慶安時代=1648~52)までは、甲州へ抜ける重要路となっていたようだ。
国領・狛江ルートの品川みちが有効だったのは、前述の「甲州街道」が出来るまでで、その後は甲州街道ルートが本通りとなった感もあるが、いずれにもせよ古来の「品川道」の有用性に関しては、府中までは「渡し」の必要が無いことにおいて、貨物等の運搬に際し重宝したと推察する。

国領・狛江ルートに見られる道路標識(通称名標識) (写真:左)国領辺り (写真:右)飛田給辺り
国府と国司 武蔵国府と大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)
国の中心となる国府には、国内の各地からさまざまな用務をもつ人々や、国府と中央の朝廷間を行き交う使人等も多数往来していた。
「租庸調(そようちょう)」制度の執行も大きな役割の一つであり、都へ貢進する武蔵国の「調」としては、絁・布・商布(交易用の布)のほか、調味料としての豉(くき)、各種の席(むしろ)などの敷物、履(はきもの?)に用いる牛皮、馬具である鞦(しりがい)、鹿革・鹿毛皮、染料としての紫草、櫑子(らいし)とよばれる漆器など多様なものがあり、物納に関しては一般的には「運脚夫(うんきゃくふ)」を選抜し(庸の労役扱い)、集団で担いで徒歩で運搬していたが、東山道では、美濃・飛騨・信濃、東海道では箱根越えという難所もあり、都から遠いという実情を踏まえ、武蔵国では船で効率的に運ぶことが一般的だったようだ。
又、古代国司の大きな仕事として、(多摩市・小野神社)、(あきる野市・二宮神社)、(さいたま市大宮区・氷川神社)、(秩父市・秩父神社)、(神川町・金鑽(かなさな)神社)、(横浜市緑区・杉山神社)の六所を巡拝していたが、11世紀後半になり負担軽減を図って、大國魂神社に上記の国内(武蔵国)の神々を合祀し、総社「六所宮」として参拝するようになった。(人々は臨機応変に対応している)
国の斎場だった大國魂神社
武蔵国の守り神だった大國魂神社の起源は、第12代景行天皇41年(皇紀771年=西暦111年頃)5月5日の大神の託宣により、出雲臣天穂日命(いずものおみあめのほひのみこと)の後裔が武蔵国造(くにのみやつこ)に任じられて以来、国造として祭務に当たっていた。その後、孝徳天皇(596~654年)の時代を経て大化の改新(645年)や大宝律令制定(701年)後、この地に武蔵国府を置くことになり、大國魂神社を国衙の斎場として国司が国内の祭務を統括した。

(写真:左)表面 (写真:右)六所宮の名が見られる
参考:からす団扇は毎年7月20日に行われる「すもも祭り」で、2日間に亘って頒布されている。同祭の起源は平安時代中期に、源頼義(よりよし)、義家(よしいえ)親子が奥州安倍氏平定(前九年の役)の戦勝を祈願し、その後、戦に勝利したお礼参りに際し「すもも」を献上したことで、やがて「すもも市」が立つようになり、祭りへと発展していった。からす団扇やからす扇子には、五穀豊穣・悪疫防除・厄除けの願いが込められ、この扇で扇ぐと農作物の害虫は駆除され、又病人は直ちに平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるとの信仰がある。何故「烏団扇」?古い伝承が道具として「烏団扇」を指定してる。何故黒い団扇?本祭りの「くらやみ祭り」に関連があるという説がある。但し、扇子には白地もある
浜下り(はまおり)行事 品川海上禊祓式(みそぎはらい)
「潮盛り」とも呼ばれる神事で、神職一行が品川海上に出て身を清めるとともに、清めの潮水を神社に持ち帰り、大祭期間中の朝夕潔斎時にはこの潮水を使用する。ここから「くらやみ祭」の一連の行事が始まる。
源頼義、義家が戦勝祈願したことにちなみ平安時代から続くといわれ、江戸時代の文献でも確認でき、「国府府中」と「武蔵国の海の玄関である荏原郡品川」との深い関係を示す行事。現在は少し離れた「お台場」近辺の海水を汲んでいる。(水質の関係かな?)
4月30日午前9時30分出発。調布市つつじヶ丘の茶屋で休息し、世田谷区上馬、下馬を通り目黒不動で休憩、「貴布禰(きふね)、現荏原神社」に到着する。潮汲みの行事が終了し、府中の神社に戻るのは午後4時頃とされ、往復、徒歩で移動する。大國魂神社の「くらやみ祭り」はこの後、5月5日の本祭後の6日まで執行される。
恐らく、甲州街道、祖師谷を抜けて千歳通、世田谷通り、目黒川沿いというルートが分かりやすく最短なのかなと思う。狛江ルートの「品川みち(いかだ道)」の存在は、江戸時代の甲州街道の開通と共に、記憶の彼方となったようだ。
8世紀末に「国司」が二子玉川に住居を構えた?
第23代国司(延暦7年(788)―延暦10年(791))「石川豊人(いしかわのとよひと)」(曾我氏流石川氏)大蔵卿が「大蔵の殿山」に住居を構え、それが由来となり二子玉川の「大蔵」の地名になったという伝承が残されている。この「大蔵」が丁度「筏みちルート」品川みちの途上にあり、仮に国司が権限で海路を辿れば移動日数は大幅に短縮し、品川湊からの陸路の「小旅(田舎道)」により、都を遠く離れたという実感もいや増したように思われる。
「品川湊」は「浅草湊」と並ぶ武蔵国の重要な港であり、内陸部にあった武蔵国国府の外港(国府津)だったので、又、大國魂神社に関連する「品川と府中」の結びつきの強い道なので、一般人は無理にしても年一度か、あるいは任期に一度の「用達船?」の利用は、普通に許されたような気がする。
第二の視点 二ヶ領用水と六郷用水
二ヶ領用水と六郷用水は慶長16年(1611)完成した。二ヶ領用水は、川崎領と稲毛領の「二」つの地域にまたがって流れたことに由来する。二ヶ領用水と対岸の世田谷領と六郷領を流れる六郷用水を合わせて「四ヶ領用水」との総称もあり、そのため「双子の用水」とも呼ばれたりする。両用水は同じ「小泉次大夫」の指揮のもとに、ほぼ3か月交代で交互に工事が進められ、川崎側では、多摩川本流の調布付近に「二ヶ領上河原堰」を造り取水する大掛かりな工事だった。

現在の二ヶ領用水(左)と丸子川(六郷用水)(右)
二ヶ領用水は取水堰を設け、用水路を開削するという大工事だったので、小泉次太夫は本拠を「武蔵小杉」にしたように見える(小杉陣屋町の名が残る)。そして終の棲家が川崎競馬場近くの「妙遠寺」となったことも考え併せれば、川崎側の工事に対する次太夫の思い入れは、相当に強かったような気がする。本流を堰き止めたことでおそらく水量も相当多く、流域に多大な恩恵を及ぼし、その感謝の気持ちの表れが現在の水路の保存状態に見て取れ、流路は南武線と府中街道が交差する「鹿島田」辺りまでははっきりと確認できる。幸いにも細長い市域に全て納まり、住民の理解と行政の残そうとする姿勢も合わさったのか、見事、令和2年(2020)の「国の登録記念物」に登録されている。
一方、六郷用水は現狛江市の川岸に取水口を設置し、自然流下の方式が採用されている。狛江市内には用水路が開削されたようだが、世田谷の砧では野川の流路を利用したり、瀬田では国分寺崖線沿いの流路(現丸子川)が拡幅されたような感じで、新規の用水路ができたぞという高揚感のようなものは、大森・六郷の下流域は別として小さかったように思う。全く恩恵がなかったと思われる大元の狛江地区では、わずかに橋名などの地名が幾つか残され、そこから下流の多くは「丸子川部分」を除くと、道路、緑道(遊歩道)、次大夫堀公園等に変わり、流路の大半が見えないからか、「幻の六郷用水」などと不名誉な言われ方もされている。(あんまりだと思いつつ、六郷用水に関しては別の稿でまとめる予定)
都市化の進行の違いや、国分寺崖線と多摩川の接近しているという地理条件、更には流域が3つの市区を跨る点等が、「双子の用水」の現状の落差に関係している。同時に生まれた子供も、育つ環境に左右されるという好例だ。いろいろな問題を踏まえて、昭和26年(1951)六郷用水を廃止し、仙川との接点から丸子橋の直上流までの区間が「丸子川」となり、品川道に続いて六郷用水も記憶の彼方へと押しやられている。
第三の視点 両岸で揺れ動いた二子の渡し
二子の渡しの標識
川崎側では、二子新地駅前の道路が旧街道と交差する多摩川に近いところに案内標があり、渡し跡を示す標柱は二子公園から、土手を河原に下った所に設置されている。
玉川側は石柱で、玉川福祉作業所の入口脇にある。川崎から見ると、下流の二子橋の先になり、重い船などは川崎側からなら、ロープに伝わりながら流れに任せて下ることができ、一方、瀬田からは滑車を利用したロープで、引っ張り上げていたようだ。

(写真:左)二子新地駅入口交差点 (写真:中)川崎側標柱 川向うにこんもりした小さな森の兵庫島が見える。川崎側の標柱は大抵、ステンレス製 (写真:右)瀬田側標柱
行政としての記録と住民の思い出話
川崎は行政力
「二子の渡しの歴史」という一枚のパンフレットは川崎側でまとめたもので、要領よく整理されているので抜き書きした。(因みに川崎側の地名、二子は「ふたご」となる)
渡しの起源
「二子と瀬田を結ぶ旧大山街道の渡し。始まりははっきりしていないが、元禄年間(1688~1703)からあったらしい。江戸時代には大山詣りの参拝客などで賑わい、また相模地方の産物を江戸に送る流通経路としても利用された。一方で渡し場の権利を巡り、川崎側と東京側で争いが絶えなかった。」
渡しの権利 渡し業の所有権は時代とともに動いていた
| 【元禄年間】 上丸子の所有 【天明8年(1788)】 二子と瀬田の共有 【明治45年(1912)】 瀬田の所有 ※神奈川県と東京都の境界変更による 【大正11年(1922)】 二子などで「渡船組合」を作る。 ※組合員は乗船無料 |
大正時代の渡し
| 【種 類】 徒歩船と馬船 【大きさ】 1艘に牛車8台程度 【艘 数】 2~3艘 【船 頭】 2~3人 ときに4~5人で漕いだ 【渡し方】 両岸にロープを渡し滑車をつけて手繰りながら渡した 【料 金】 片道1人2銭、自転車5銭、荷車5銭 ※ちなみに「かけそば」一杯4~9銭程度 |

大正時代の渡船の様子
渡しの廃止
大正12年(1923)の関東大震災で、東京からの避難民が大山街道を下ったことをきっかけに、二子橋の架設運動が活発化し、時を合わせるように軍隊の配置が池尻から三軒茶屋辺りで進むと、橋の重要性が高まり大正14年(1925)に二子橋は完成した。そして同年「二子の渡し」は廃止となった。
渡しの復活
「平成23年(2011)二子の渡しの歴史を学び体験することを目的に、1日限定で復活。以降、毎年1回、1日限定で渡し体験ができるイベントを開催。」
川崎市高津区役所地域振興課が主催している行事で、写真を見ると「岡本かの子文学碑」のある二子公園が会場になっている。先に述べたように兵庫島のひょうたん池付近の川岸は川崎側の領域なので、行政としても開催しやすいのかもしれない。
瀬田は行政と住民力
世田谷区には体系的なまとめが見られず、行政が集めた個人の体験談が中心。
● 二子の渡しというのは、川向こうに二子村があって、その昔行き倒れの旅人の世話をしていた双子の兄弟が、その亡くなった人の所持金を元にして舟を造り、渡しを始めたことから名付けられた。(伝聞のようです)
● 徳川幕府が、江戸防衛の最前線として架橋を制限したので、街道を行く人々はここ二子の渡しから多摩川を渡った。徒歩船、馬船。河原には茶屋、蕎麦屋。船待ちや川遊びで、渡し場は大いに賑った。
● 多摩川が増水すると、利用者は何日も足止めされた。その為に両岸は宿場町として発展した。
● 小さな渡し小屋には半纏に鉢巻き姿の船頭さんが二人、お客がある程度集まると舟を出すといったあんばいでした。朝が早くて、夏は午前5時ごろから夜も11時ごろまで動いていました。船頭さんは請負だったと思います。舟は一般渡し用が長さ三間、幅一間ほどで、他に馬渡し用の長さ四間、幅一間半もある大きな舟もありました。船頭さんは長い長い竿をあやつって、7,8メートルの川を十分足らずで渡ります。
● 以前は二子村と瀬田村が村の仕事として運営した。渡しの権利はそのころ瀬田の所有でしたから、瀬田の人が野良着で川向こうの飛び地に農作業に行く時などは無料だったようです。他の人は、一人片道2銭、自転車5銭、荷車10銭でした。水かさによって渡し場が上の時は兵庫島、下の時は中家(料亭)前になり料金も違いました。渡しの収入は、一年分をまとめてお祭りの費用などに使い、残りは年末に各戸に分配しました。そのころの瀬田の戸数は百五、六十軒。一軒に20円ほどが配られたそうです。よそから引っ越してきて4、5年もすると分配金がもらえたようです。この時から住民として認めてもらえると同時に、義務も生じることになります。
● 行善寺―調布橋間の大山街道を通る人の多くは、神奈川県の荷車(肥車)だった。
軍が地域に及ぼした経済的な影響は神奈川にまで届き、地域全体が変わる予感が感じられ、実際「玉電」が開通すると、この地区(瀬田・上野毛)は軍幹部の住宅供給の場にもなった。
明治43年1月「下野新聞」の軍隊広告
「第14師団、歩兵第二連隊、工兵第十四大隊、歩兵第十五連隊の下肥、馬糞尿、払下げる。買受望ノ者は、来る2月8日当部に入札すべし。第十四師団経理部。」
栃木の話ですが、一般的に各地の駐屯地でも行われていたと推察する。上記、神奈川の荷車の話題はこうした流れの中で、生産した野菜等を軍隊等に卸し、帰りに下肥等を引き取ったということが実証的に想像される。


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