「多摩川」を挟んだ二つの村 ②‐1

二子玉川という「地名」は存在しない=006

弟(妹)たる「瀬田」そして玉川 その1

荏原郡とその後

 この地域は古くは「荏原(えばら)郡」と呼ばれ、「新編武蔵風土記稿」によれば、奈良時代に荏(荏胡麻)が繁茂していたため、「荏の原」と呼ばれたことを由来とする説明がなされている。地域的には、目黒・大田・品川のほぼ全体と世田谷・港・千代田の大部分を占めていたが、江戸時代になると江戸御府内は荏原郡からはずれ、六郷(34村)・馬込(13村)・世田谷(30村)・品川(13村)・麻布(5村)の5領となった。

 更に、明治22年(1889)の町村制の施行では1町18村となり、唯一の「町」は都心に近く(人口が多い?)「宿場町」でもあった品川だった。玉川村は世田谷に含まれ、八つの村と三つの地域で構成された。(尾山村、奥沢村、等々力村、用賀村、瀬田村[大部分]、野良田村、上野毛村、下野毛村[大部分]、深沢村[一部]、衾村[飛地]、下沼部村[飛地])

 昭和7年(1932)の改正では「郡制」に変えて東京市となり、区制が採用され全6区の内の「世田谷区」は世田ヶ谷町、駒沢町、玉川村、松沢村で構成されている。この時期、玉川村では後に歴史に名を刻む、住民主体の大規模な「全円耕地整理事業」が進行中であり、自立の気概も高く「玉川地区独立の建議書」を区会に提出するだけでなく、その後も粘り強く働きかけていたが、昭和22年(1947)には却下されてしまう。これを受けて村内各地域は「町」に移行するに当たり、町名の頭に「玉川」を付け、却下されても尚、まるで独立の気概を示すような決着をさせた。その後、旧瀬田地域は「玉川瀬田町」と「玉川町」に分けられることになるが、深慮のあるなしに関わらず、「玉川」の独立名称の出現は玉川村の「自主独立」の遺伝子を、村内の辺境の地、「人が住むに能わず」とされてきた土地に集約させる事につながったのかも知れない。(名は体を表す)

昭和30年頃の瀬田周辺の地図。少し見難いが、玉川の冠が町名にのっている

 玉川冠の町名は、昭和43年(1968)頃の住居表示制度実施まで続き、「旧玉川村」に由来する地名は、純粋培養的な「玉川町」の他に、大田区との境に「東玉川町」と「玉川田園調布」が残されている。

瀬田の小歴史

瀬田の地名由来

 諸説あるが「瀬戸」が転訛(てんか・なまり)したという説が有力と言われ、本来は「狭小な海峡」の意味ですが、いつしか海がなくても狭い谷地を「瀬戸」と言うようになったようだ。確かに村の中心を南北に貫く「現、上野毛通り」は、国分寺崖線の「稲荷坂」を下ると直ぐ多摩川の沿岸だったようなので、頷けるところがある。昭和30年代まで崖下には、多摩川の存在を感じさせる東西200mの淵が「明神池」として残り、東急が渋谷駅北口の「東急文化会館」を建設する際の残土で、埋め戻したとの噂も耳にするので、外形的にも実証されると思う。(上記は、現代の地形を基準に判断しているが、稲荷坂は見るからに切通しのようなので、古い地形を考慮すると、もう一つ上流側の「現、駒沢通り」のまむし坂が、名からくる雰囲気のどおり「谷戸」なので当該地だとして、明神池の存在で多摩川が崖下に近かった点が重要と考え、説明に利用した)

「崖下」は洪水が多発し、古墳も人も「崖上」が生活の基盤

 崖下は現、玉川1~4丁目、上野毛2~3丁目(一部)、野毛3丁目(半分)で、崖上は現、瀬田1、2、4丁目、上野毛2~3丁目、野毛3丁目であり、時代がだいぶ進むが、地元の名家、長崎佳久氏は以下のように回顧されている。

 「当時は、玉川税務署辺が桃畑で、西は谷川の先に農家が若干あっただけで、その間は一面の田畑で家は一軒もなかった。もっとも南の、今の富士館会館辺は茶屋が10軒ほど並んでいて鮎のとれる夏は賑わった。しかしそのすぐ裏の、今の高島屋辺になればもう平凡な農村風景に戻っていた。」

 「この田畑の耕作者は皆、北の高台に(今の瀬田)に住んでいて、始終次太夫堀を越えては耕作に出た。」

 ある意味、後に登場する「玉川町」は水害多発地域として、繰り返すが「住むに能わずの地」だったようで、農業面でもリスクの大きな生産地帯だった事は間違いなく、この地が僅か半世紀程後、みるみるうちに価値を生み、地域全体を大きく発展させる起爆地域になるとは、当時、誰が想像できたことだろう。

玉川3・4丁目中心だが、昭和20年~25年頃

武士たちの時代から、土地の価値は早くから見極められていた

 広い関東平野は、平安の都から皇室を離脱(臣籍降下)した皇族が割拠し、狭い都から解放された皇族たちは、平氏や源氏を名乗って、のびのびと勢力の拡大に励んできた。こうして「一所懸命」を旨に、自らの力を蓄えた武士たちが、やがて鎌倉に幕府を興し、数限りない戦いの明け暮れから、徳川の時代に至っている。(徳川家康は源氏の「新田氏」を名乗っている)

 世田谷の「殿様」といえば、地域の住人なら誰でも「世田谷城主・吉良氏」を思い浮かべると思う。元々は足利尊氏(たかうじ)の一族の三河・吉良氏の流れで、南北朝時代、奥州管領として足利政権を支えたが、「観応の擾乱」以降、衰退の一途となり、初代鎌倉公方の基氏(もとうじ、足利尊氏4男)の誘い(救いの手)にのり、上野(こうずけ、群馬)から最終的には世田谷に所領を得た(一説には1450年頃とされている)。(世田谷城の説明では、貞治5年(1366)に所領を得たとされているが、基氏の在職が(1349-1367)なのと上野の扱いが考慮されていないので事実関係は微妙)

 いずれにしても室町時代以降、世田谷を体系的に支配したのは、「世田谷殿」とも呼ばれた武蔵・吉良氏であり、「瀬田」も吉良氏の領地に含まれ、瀬田・上野毛には吉良の元家臣(らしい)も定着している。その吉良氏も、1550年頃の関東の複雑な合従連衡に疲れたのか戦いの一線から身を引き、その頃関東の覇者に名乗りを上げていた「後北条氏」の風下に立った。後北条氏二代当主・北条氏綱(うじつな)の娘を正室に迎え、足利氏の流れを汲む「鎌倉公方の御一家」という別格の扱いを受けていた。

世田谷区内唯一の歴史公園。世田谷城址公園は、東京都指定文化財に指定されている

長崎氏という名主

 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏は滅亡するが、その20数年前には長崎重高(しげたか)など8名の家臣が瀬田に定着する。長崎氏の移住は家人等11名とされているので、その家族や下僕等含めれば総勢は数十人だったかもしれない。この時期には、烏山・弦巻・宇奈根・北見・小机・深沢・用賀と同じく北条の家臣団が下向しているので、将来の波乱を予想して、恐らく吉良氏の監視という役割があったのではないかと推測する。

 一概には言い切れないが、多摩川と国分寺崖線は関東と相模を分ける重要な要衝だったようだ。通説では、長崎氏が「瀬田城」を構築したと言われているが、指摘されている「レモン型」の台地に移り住んだのは、主家滅亡後約50年後の孫の世代のことなので、もう徳川の直轄地の時代であり、私としては「城」説はとらず、館を城としていたような気がする。(鎌倉時代には館を城と呼んでいた。現代でも持ち家を一国一城の主と例える言いようがある)後北条氏の家臣であった長崎氏は、その後は土着して瀬田村の名主となり、今もその館跡に「長崎館」の石柱が残されている。

 長崎氏に関して天明6年(1786)の彦根藩の記録では、世田谷領内の名主の「持高」が、世田谷村名主二人、37石。岡本村17石。大蔵村31石。上野毛村21石。下野毛村13石、野良田村16石。宇奈根村60石。そして瀬田村「長崎四郎兵ェ」71石となっていて、群を抜いていることから相当大きな土地を所有していたと推定され、後年、子孫の方は「おじいさんが自分の土地を一日では回り切れなかった」と回想されている。

 瀬田は、北条家が事前に家臣を配置した状況において、その位置関係から見ても中心にあたり、いざという時は長崎氏が全体のまとめ役だったという推測もなされる。幸い、横浜の蒔田城(まいた)で控えていた吉良氏も、世田谷方面も合戦に巻き込まれることなく、無事に徳川の治世に納まって行った。

大山街道に関する簡単な考察

 瀬田は実態として、宿場でもなく純農村で、江戸時代の話題として「次大夫堀の開削」「徳川将軍の御成」、明治時代の「二子の渡し、経営」「青梅からの筏流し」、大正にかかっては「砂利の採掘」「別荘地と奉公」などの話題もなくもないが、多くは瀬田のみならず地域共通の出来事で、地域全体を含めて純然たる農村地域を形成し、商業等の発達は大山街道、いかだ道に関連したもので限定的だった。

 江戸時代から明治・大正までの瀬田は、地域的な特性(主に自然環境)からある程度の輝きも見られたが、古来より府中街道の宿場町として栄え、江戸時代に通行量の増した大山街道(矢倉沢往還)の渡船場・要衝として、幕府から宿場町の「継立の役割」を任せられた(兄)二子・溝ノ口が一段、格上で、地域の経済体制の確立という点において、多摩川を挟んで同じ街道筋として好対照を見せ比べるべくもなかった。

 両岸を南北に貫く大山街道も、現在でも旧道を歩くと川崎側の古街道らしさの重厚さは、瀬田・玉川と比べるのが申し訳ないような気持ちになるが、東京側にもそれなり歴史はあるので、簡単なまとめを試みたい。街道には公用と私用の性格があり海岸際とか山道など通路が限られる所や、平地などでは通路が幾筋に分かれるような場所も見られる。おそらく公用の通路は規定されていて、分岐している所は観光等を目的とした自由な通路だったように思う。

 世田谷の大山街道は三軒茶屋で分岐し、大きく分かれ用賀で合流すると、玉川台の延命地蔵で分岐し、南に向かって左が「行善寺道」、右が「慈眼寺道」と分かれている。(大山街道全図を見ても、ここのような全体が「8の字」のような分岐は見られない)三軒茶屋の分岐に関しては、代官屋敷を含む通路が一方にあるので頷けるが、瀬田・玉川の分岐は距離2㎞弱、道同士の間隔は500m弱なので、これは一体どういう訳なのかと訝しむが、「大山街道は行善寺側が本道だ。」という意見もあることから察すると、行善寺には徳川将軍の御成があり、長崎館がお休み処となった事を踏まえれば「公用道」だったように思う。そこは今の表現で言えば「都心」に向けて、川崎側から生産物や様々な物資が運ばれ、帰りには多少、時代がまぜこぜになるが肥料となる「下肥」が行き交ったとすれば、行善寺坂に「行火(あんか)坂」が付随するのも、体がポカポカになるという説明を裏付けるような気がする。

 瀬田側には「二子の渡し」乗降場の形跡が2ヶ所あり、行善寺道の河原には標柱も立っている。馬や荷物を満載した舟を水平に渡すよりは、上(かみ)から斜めに渡す方が効率的で、ロープを通し引っ張っていたという記述もあるので、こうした推理ができるように思える。(流量により乗降場が変わったというだけで、具体的な渡船の仕方の記述はあまり見られない)

 一方、慈眼寺道にはお寺が5ヶ寺(昭和初期移設の玉川寺含む)、神社3社(河岸の諏訪神社含む)があり、明らかに私用の観光道の体裁があり、人々は匂いを嗅ぎ分けるように道を作っていった証なのかも知れない。逆に人が通行するようになって社寺が出来たのかも知れない。ただ、長崎氏がこの街道沿いに拠点を築き、慈眼寺、御嶽神社(現、玉川神社)を崖上に勧進しているので、当時は鎌倉道として街道の道筋は存在したようだ。

 いずれにもせよ今日、行善寺道にしても、慈眼寺道(現、二子玉川商店街)にしても、江戸の人口100万人の内の20万人が、一年中行き交ったという当時の様子を窺えるような痕跡は見られない。

    左:行善寺坂         中:二子玉川商店街     右:大山道フェスティバル「灯籠」

プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、まだ“新住民”の範疇で、環境の良さ、便利さをただ享受しています。
●でも二子玉川を散歩し調べてみると、殊の外、奥深い歴史を内包していることが分かりました。
●子供たちが歴史や文化を学ぶ機会は少ないようなので、ただ生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しいと感じ、いつか目に留まる機会を期待して、土地の物語を紡ぎます。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を 、出来るだけ“堀上げ” 整理することが目標です。

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二子玉川論
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