双子のような「二子(ふたご)」と「玉川」その②

二子玉川という「地名」は存在しない=003

 土地を巡る種々の因縁を縦軸(時代軸)に、大山街道が「二子の渡し」を介して両村を貫通する生活軸(横軸)が絡み合い、多摩川の河岸地域という「相似 」と「相克」が両地域には見て取れる。

 

第四の視点 兄弟喧嘩・土地争い

多摩川は高低差を伴い、比較的、短い距離を流れ下るので、川を挟んで向かい合う地域の両岸には、その蛇行により分断された同じ名の地名がいくつも存在し、その為、川向こうの「所有地」の管理のためにこの地区だけでも3本の渡し場があり、自然のすることに対して「自若」として臨んでいたことは、高津区・諏訪の名家、小黒さんの「主に農耕地は今の玉川高島屋デパートのある諏訪地域でした。」とのお話からも伺える。しかし「共有のような形態」の土地の場合は、時に「土地争い」に発展している。

元禄5年(1692)の頃​​ 瀬田村・諏訪河原村寄洲訴訟裁決書​

 瀬田側にあった秣場(まぐさば)を巡る土地争いは、従来から川を村境とした原則と、川の移動による損失をどう考えるのかという問題だった。

 瀬田村の主張は、川筋は流れ着いた通りに決まるのが慣例であり、「自然には逆らえない」という自然主義、原則論。一方、諏訪河原村では、秣場(まぐさば=馬の飼料や田畑の肥料とする草を刈り取る場所)はかつて川の南側にあり、間違いなく諏訪河原村に帰属していて、村境は“以前”の川筋であるべきと主張した。

 「「古川敷」際には草地が広がり、「論所」(問題の場所)と記されている。ここが諏訪河原村の主張する秣場である。「古川敷」際に墨で境界線が引かれ、線はそのまま図中央を南北に抜けている。線から論所(秣場)を含む東側が諏訪河原村、西側が瀬田村と定められた。」

彦根藩の馬の管理が任されていた?​

 争論に至った「秣場」が、大切な場所ということが認められたようで、諏訪河原村に戻すような線引きとなっている。そもそも個人所有地は流路の移動に関わりなく、相互の所有権が認められていた実情があり、秣場が川向うにあったと認めつつ、瀬田側があえて「いつ頃?の従来」の考えを持ちだし​​​​​​共有を拒絶したのは何故なのか。飽くまでも憶測とするが、彦根藩の馬を世話していたといわれる「下野毛地区」に関連していたように思える。

 裁定図の北側(下部分)と東側(左部分)に上野毛村が見える。更に(図には見えないが)左には下野毛村があり、彦根藩領の時代はこの地域一帯は「荏原郡」とされていて、多摩川上流の上野毛に対して文字通り「下流」という下野毛地域もご多聞に洩れず、多摩川を跨いで入り組んでいたが、明治45年(1912)多摩川右岸は神奈川県となり、左岸の世田谷でも昭和7年(1932)野毛町と変わっているので、下野毛の名を残すのは、現在は川崎側だけとなっている。

 「下野毛の秣場」の位置は特定できないが、古い地図では今の野毛一帯と川崎側を合わせて「下野毛」であり、川崎側に存在したのかどうかも分からないが、瀬田に限れば野毛地区は国分寺崖線と多摩川が接近し、放牧する場所は限られるように見える。川を挟んで南に諏訪河原、北に瀬田、この両方に接するのが下野毛であり、もしかすると諏訪河原と瀬田の論争は、下野毛の代理論争だったのかも知れない。

二子玉川の「桜田門外の変」

 彦根藩は、この訴訟のおよそ60年前の「寛永10年(1633)」に、この地域の領主となっている。そうだとすると彦根藩の馬が、当時、多摩川の河原で草を食んでいた可能性はあり、それを感じさせる「一文」もある。「江戸時代の下野毛村には井伊家の軍馬を養う秣(まぐさ)場(牧草地)があり、また参勤交代の折には村の有力者たちが供をした。井伊世田ヶ谷領では格別に井伊家とのつながりが深かった村の1つで、また村人もそれを肌身で感じていた。」

 当時の仕組みとして、「助郷(すけごう)」という制度があり、基本、宿場ごとに人馬の提供が義務付けられていて、日によって定数を越える時にそれを補う制度。品川宿(荏原・豊島郡)では62の定助郷の村を二組に分け一年交代(負担軽減)とし、勤番の村々から選んだ惣代が出人馬を調べて、「助郷高」に応じた数にならないときなど調節をする役目があった。こうした調整は、通常の場合は「加(か)」助郷が予め指定されていたが、特別な「大通行」(将軍の継統(出典資料のママ)について祝儀のために下向した勅使などの公家や、その謝礼のために上京した将軍の名代など)に際しては、上野毛・下野毛・野良田・岡本・大蔵・鎌田・弦巻・用賀村等の16村が「増(まし)」助郷に指定されるなど、支配下の村々には役務が課せられていた。下野毛村の場合は助郷に関しては脇役だったが、「軍馬」を養っていたという異なる筋合いの役務があったとすれば、その特別感は際立っている。

 『下野毛村にとんでもない知らせが飛び込んで来た。万延元年(1860)三月三日領主直弼の死だった。名主の家に集まってきた村人たちは怒り、且つ藩主の死を悲しんで、次のようなことを衆議一決する。

 一、今後三月三日の雛祭りは一切行わぬこと

 一、端午の節句もせぬこと

 一、以後、彦根藩と共にすること

 第三の決議は、どのような形で現れたのか判らないが、第一と第二の決議は今以て旧家の間では守られているという。以前、これを破ったがために子供が死んだということがあったという。それはともかく、一つの習わしがこの下野毛に続いている。彦根藩の関係者がこんな律儀なことを、今やっているだろうか。』

(上記の『』内の文言に関して引用元資料を探していて、残念ながら今のところ見つかりません。見つかり次第この( )書きは削除することとし、今のところは「民話の類」と受け止めて下さい)

 世田谷の大場代官には昼頃、急報が入った(大場美佐の日記)ようであり、当日、上巳の節句で集まっていた地区内の名主たちには直ぐ伝えられた。

勝海舟が褒め称えた彦根藩の対応

 水戸の脱藩浪士ら18名による決死の襲撃により、井伊直弼(なおすけ)は首を取られてしまう。対した供侍60数名は、生憎の雪模様で刀に柄袋(つかぶくろ)を施していたので対応が遅れ、主君を守れなかったことにより軽傷者は切腹、無傷の者は全員斬首、家名断絶となった。攻めるも大変、守るも大変、本当に命懸けの出来事だった。

 当日命を落とした8人の藩士は手厚く葬られ、井伊家の菩提寺・豪徳寺に「桜田殉難八士之碑」を建て供養され、その一生を直弼の墓守として過ごした遠城謙道(おんじょうけんどう)の墓(首座塔)と共に、直弼の墓に寄り添っている。(武士には覚悟が求められていたという好例)

 藩邸には事件直後から、復讐の挙に出ようとする藩士が詰めかけてきた。尊皇攘夷派であったため、保守派の井伊直弼と対立して罷免され、国元へ帰国する直前だった岡本黄石(おかもとこうせき)が事後処理にあたり、「私怨をはらすことより、国の大事を優先すべきだ」と3昼夜に渡り説得し続けた。

 その間に井伊直弼「討ち死」の事実を糊塗するために、「そこで井伊家、遠藤家(直弼の首が持ち込まれていた)、幕閣が協議の上で、表向きは闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽り、内向きでは「遠藤家は負傷した直弼を井伊家に引き渡す」という体面を取ることで貰い受け、事変同日の夕方ごろ直弼の首は井伊家へ送り届けられた。その後、井伊家では「主君は負傷し自宅療養中」と事実を秘した届を幕閣へ提出、直弼の首は彦根藩邸で藩医・岡島玄建(玄達説アリ)により胴体と縫い合わされた。」当時の公式記録に「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」と残される。

 井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、直弼の没日が「安政七年三月三日」(1860年3月24日)ではなく「萬延元年閏三月二十八日」(1860年5月18日)と刻まれているのはこのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。(岡本黄石が家老として支えた)

 勝海舟は、「黄石が思慮のない男だったら、幕府も屹度(きっと)これが為に倒れるし、必ず日本全国の安危に関わる。冷ややかな頭を以て国家の利害を考へ、群議を排して自分の信ずる所を行った。(氷川清話より)」と絶賛した。結果的に8年後に江戸城は無血開城となったが、勝海舟の頭の片隅にこの事件があり、無益な戦いを避ける努力の源となっていたのかも知れない。

 瀬田・諏訪河原の土地争いが、「桜田門外の変」にまで及び長い寄り道でしたが、争いからおよそ150年後の下野毛村の「三つの覚悟」を思う時、実際に余程の関係が保たれていたと感じられ、「単なる牧草地」の争いが、井伊家の馬の存在に影響されていたのかもという気にさせられる。

プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、まだ“新住民”の範疇で、環境の良さ、便利さをただ享受しています。
●でも二子玉川を散歩し調べてみると、殊の外、奥深い歴史を内包していることが分かりました。
●子供たちが歴史や文化を学ぶ機会は少ないようなので、ただ生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しいと感じ、いつか目に留まる機会を期待して、土地の物語を紡ぎます。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を 、出来るだけ“堀上げ” 整理することが目標です。

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二子玉川論
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