
高校を卒業するまで、大田区糀谷(こうじや)という所で育ちました。敗戦直後の混乱も少し落ち着き、親たちは生活再建に全力を尽くしていました。多少、お金持ち(当時の表現)風の家もありましたが、おしなべて貧しく、そんな中でも子供たちはとん着することなく、「少年探偵団」風の集団を形成して町中を駆け回っていました。塀があれば上り・潜り、家の裏も縁の下もすべてが子供たちの世界でした。まだ車が少ない通りや路地は運動場であり遊び場でした。近所には原っぱも所々あり、子供が入れるぐらいの太さの土管が積み重なり、隠れ家に変化しました。こうした子供たちの行動に口を挟む大人は居ませんでした。年齢の雑多な子供たちはこうして、土地に包まれ・育まれたような気がします。そして今思い返すと、あの集団が今でいう「幼稚園」であり「学童クラブ」になっていて、夕方、母親が「御飯だよ︕」と呼びに来るまで、一心不乱になって遊んでいた。このようにして私は成長しました。
都立園芸高校へ進む
高校は、入学の前年に母を亡くしていて、想定していなかった都立園芸高校に進みました。等々力(とどろき)の丘の1haの敷地に抱かれ、驚くべき心境の変化で思いもしなかった山岳部に入部。足腰の鍛錬の為、等々力の街を走り、ザックに石を詰めて多摩川近くの「果樹園」まで往復したりしていたので、体は鍛えられ性格も前向きに変わったような気がします。土に親しむのが授業であり、都会の中の田舎的な環境と自然に包まれた学園生活、結果的には恵まれた3年間を過ごしました。家から偶に自転車で通学しましたが、緩い上りの傾斜があり往きは少々頑張って、帰りは楽々という思い出もあります。同級生が下丸子(しもまるこ)に住んでいたので、途中の「光明寺」裏の池では寄り道して遊びました。

現在の光明寺池の様子。恐らく事故か何事かがあり、無情の塀にかこまれています。この池は「古多摩川」の流れが残されたと言われています。当時は知る由もなく、バシャバシャ遊んでいました。
川崎・諏訪が愛の巣
結婚後「高津区諏訪」に5年近く暮らし、妻の実家が「二子玉川」でしたので土手を歩いて二子橋を渡り、時々お洒落な街の雰囲気に接していました。家の周りにはナシ園があったり、生活圏としては「溝の口」が便利でしたので買い物は専らこちら側でしたが、この街はレトロな雰囲気が漂うとてもいい感じでした。
2人目の子供が生まれたのを機に「二子玉川」に移り、そうして20年余の歳月が過ぎました。

川崎の家の近くの土手に「諏訪の渡し」の標柱が立っています。対岸は世田谷「ライズショッピングセンター&レジデンス」です。かつての「古多摩川」は世田谷の国分寺崖線近くに寄っていて、現在の玉川1丁目辺りは川崎側でした。いつ頃かは分かりませんが、江戸時代には現在の流れになっていて、川崎・諏訪の農家は自分の農地の作業の為、渡しに乗って行き来していました。
玉川1丁目の旧地名は「諏訪河原」です。
小鮎は成魚となり定着しました
徳川時代にお米の増産のために、多摩川の両岸の東京側は「狛江(こまえ)」辺りから、川崎側は調布辺りから、自然流下の用水が作られ下流域を潤しました。東京側の「六郷用水」は世田谷から大田区へ流れています。私の育った「糀谷」は、下丸子で分流する南北引分の「南堀」に当たります。当に六郷用水を辿るとドンピシャで二子玉川となり、私の人生はその流れを辿っています。最近、多摩川にアユが戻ってきて遡上し、産卵もしています。私も「六郷用水」を見事に遡上してきたので、この地に小さな卵、一粒でも生み落せたら嬉しいなと願っています。
第二のふるさと、二子玉川
子供の頃の体験を思い出し、人間が土地に抱かれることの有効性が理解できます。土地は人を拒まず育んでくれます。自分が土地に好かれるように理解し、足跡を刻めばより受け入れられることでしょう。人との交流があれば尚更ですが、土地との交流だけでも何かが与えられ、何かを感じるようになれます。歩いてみて実感する「二子玉川」は、実に味わいの深い土地のように感じられます。
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