現在の多摩美
●都心にもアクセスしやすい多摩美の原点
都心部から至近の上野毛キャンパスは、首都圏西部に連なる緑豊かな住宅地に接する教育に適した立地にあります。昭和64年(1989)美術学部二部が上野毛キャンパスに開設され、フィルムおよびVTRの映像・録音・編集施設を備えた3号館が竣工。平成26年(2014)美術学部の統合デザイン学科と演劇舞踊デザイン学科を新設し、演劇舞踊スタジオも完成、充実した教育環境を保つために設備更新が続けられている。
●新棟建設の目的
令和7年(2025)には創立90周年を迎え、老朽化や耐震の問題への対処と合わせて、上野毛キャンパスに新棟(仮称)を建設中。この目的は、アートが新しい世界像を具現化し人々の心を動かすこと、更にデザインが私たちの社会を望ましい状態に導くなど、これらを実現するためには、学生や教員が自身の創造性を育むことができる空間が必要となった。
学生の作品をはじめとした様々な創作物が展示される1階のギャラリーは環状八号線沿いに面し、清々しく質実剛健な大屋根と天井高の高い空間は地域住民の方々を迎え入れる。また、共同作業やコミュニケーションを促進する各階のスペースにおいては、アートやデザインの枠を超えた活発な交流が行われる。
(多摩美術大学ホームページより(一部改変))

建築が大詰めを迎えている新校舎の近影
今日の上野毛キャンパスに至る「長い道程」
多摩美術大学の村田晴彦元理事長が、約100年前に「上野毛」にキャンパスが起ち上げた頃の様子を以下のように伝えている。
「学校前の道路は車一台も通らないというような静かな淋しい処であったから、上野毛という地名も多摩美術学校という学校も都内では通用しない。だから夜は円タクは決して上野毛までは行ってはくれない。終戦後でさえ往復の車代千円を出して、漸く乗せてもらったのである。それが戦後数年して学校の裏へ江利チエミ、美空ひばり、淡島千景等が来て、さらに島津貴子さんが来てからは一躍東京の高級住宅地になった。」
=概略=
「多摩美術大学上野毛キャンパス(世田谷区上野毛3‐15‐34)の歴史は、多摩美術大学の前身の多摩帝国美術学校の校舎が建設された昭和10年(1935)に始まる。戦時中、校舎は海軍技術研究所に接収され、昭和20年(1945)には空襲で焼失した。昭和25年(1950)多摩美術短期大学設置、昭和28年(1953)多摩美術大学が正式に設置されたが、キャンパスが手狭なため昭和49年(1974)には「美術学部」が八王子へ移転、現在は本部と造形表現学部(夜間課程)、大学院が上野毛キャンパスに置かれている。大学の略称は多摩美(たまび)」
=それは吉祥寺に興った=
帝国美術学校(当時は各種学校)は初代、北昤吉校長を擁して創立され、請われた村田晴彦元理事長が補佐し、単なる各種学校ではなく上野の美術学校にも優る学校を目指していいた。
北昤吉(きた れいきち)明治18年(1885)― 昭和36年(1961)
「日本の思想家、評論家、教育者、政治家・衆議院議員、日本自由党政調会長。多摩美術大学創立者。別名・礼華。226事件の首謀者の一人である北一輝の実弟。」
(多摩美術大学の沿革によると昭和10年の上野毛キャンパス創設時の校長は杉浦非水であり、北玲吉は名誉校長とされている。)
昭和4年(1929)に帝国美術学校が吉祥寺に設立され、翌年の4月の学生募集に際しては、近く『専門学校昇格予定』と広告したことで、専門学校となれば「徴兵猶予の特典」があることなどからか、入学志願者が定員を越して集り、昭和10年(1935)には在学生480名余となっていた。
しかし専門学校昇格には基本金10万円が必要であり、各方面に手を打ったもののよい結果は得られず、時間ばかりが過ぎていく中、ついに東横社長五島慶太氏から「東横沿線に学校を移転するならば基本金と校舎建築資金全額を貸してもよろしい」と快諾を得、早速この条件を承諾して(現在の上野毛校地)土地賃貸借の仮契約を取交した。
昭和9年暮に学生達から、専門学校への早期昇格の要望書も提出されていた。
ところが学生は、東横沿線へ移転しての専門学校昇格ならば反対だと言い出し、学校昇格促進運動は移転反対運動に変っていく。北校長は、現在の吉祥寺校地1500坪では専門学校校地として狭隘であり、少なくとも5000坪の上野毛校地へ移転して専門学校に昇格させてはどうかと学友会委員に諮ったが、学生側は移転そのものに反対で、現時点では学校昇格は問題ではないと言張って、遂に物別れとなった。
昭和10年(1935)同盟休校事件(学生の全部または一部が学校当局に対する要求を掲げ、同盟して一斉に授業をボイコットすること)が発生した。一部で学校側が学生を威嚇したことや、学生が東横本社へ契約破棄を働きかけるなどの伏線もあり溝は埋まりそうになかった。結果的に東横はこの時、契約の破棄を申し入れている。
学生父兄もまた学校と対立状態となり、騒動に付き物のいろいろな策動や人士の思惑が入り混じり、帝国美術学校の分裂は不可避となり、当時、「四百八十名の学生中、八十数名は図案科科長の杉浦非水さんに白紙委任という形をとったにも拘わらず、実際には四十数名の学生に分裂し、彫刻科は三十五名の学生中、児島正典氏一名、日本画科は三十名の学生中、高橋重郎氏一名、油画科は四年生五十数名中二名、三年生六十名中九名、二年生五十名中一名、一年生五十名中一名となり総数四百八十名中僅かに六十四名の学生が北校長を支持するという形に転落した。」

新校舎の全容が明らかになり、恐らくヒマラヤ杉だろうか枝を大部分伐られ、儚げに校舎からベルトで支えられている。伐採されずに1本でも残したことが多摩美らしさなのかもしれない。バス停の時刻表は1時間3~2便が運行することを示している。東急大井町線利用が大半なのだろう、まるで「いなか」のようだ。
=本格的美術学校立ち上げの苦悩=
この年の夏、旧新宿武蔵野館の真向いにあった新宿ホテルの2階2室を、「本格的美術学校」創設の仮事務所として借り上げ、帝国美術学校の全面移転計画を進め、上野毛への移転に際しては吉祥寺の校舎を封鎖した。吉祥寺に残留を希望する分割派は裁判係争を進めながら、吉祥寺校舎の南隣接地にあった東京女子高等師範学校が関東大震災の復旧時に使用した御茶の水の仮設校舎を移築して授業を再開した。
こうした事情で移転に際しては、東京地裁で係争中の為に帝国美術学校の名称は使用できず、移転先の学校名称は「多摩帝国美術学校」となった。
同盟休校事件に伴う分裂騒動、その後
封鎖された「帝国美術学校」の裁判は8年間にわたり長期化したが、太平洋戦争の戦時調停によって校舎は海外鉱業協会に譲渡され「大東亜工学院」となり、終戦時に法政中学校に売却され現在はマンションになっている。
移転反対派の仮校舎は終戦後に引揚帰国した鉱山経営者が購入し、昭和22年(1947)に各種学校「武蔵野美術学校」が開校する。その後、上野毛では昭和28年(1953)に「多摩美術大学」と改称し、一方、吉祥寺は昭和37年(1962)に「武蔵野美術大学」と改称した。
従って「武蔵野美術大学」は、「帝国美術学校」の名称も校地も継承していない、と多摩美側は主張する。
《武蔵野美術大学の前身帝国美術学校から、“多摩美”が分離独立をしたという“武蔵美”側の理解が流布している事に、多摩美側が資料を揃えて反論している。よくある本家騒動が静かに続いている。》
=北校長の苦悩は続く=
横山東京府知事から「一先づ新設学校を造って帝国美術学校から分離した教員と学生を収容してはどうか」「再び両校を合体させるよう努力する」という助言があり、当面は「多摩帝国美術学校」という校名で申請書を東京府に提出した。
「学校創立には、(一)所有土地の登記簿謄本または土地貸借契約書、(二)基本金、(三)校舎の設計図面、(四)教員組織表、(五)五ヶ年間の学校の予算書、(六)図書その他備品、器具、標本、什器一切の台帳、(七)警視庁衛生局の井戸の水質試験書等々が必要で学校の創立が容易ではないことを始めて知り、残留教員と学生には9月6日に開校するから上野毛校地へ集合することを宣言していたので途方に暮れた。」
窮地に追い込まれた北校長は「面子も何にもいらない。私は学校なんか止してしまう」と慨嘆したが、信じて上野毛移転に賛成した教員や学生を守るために、東横との再契約、東京府からの学校認可、申請書の作成など走り回り、昭和10年9月6日になんとか多摩帝国美術学校は認可された。
その日、校舎が無いどころか裸地同然の予定地に集合した教員と学生は、隣地の田中貞治氏の庭の樹下で、北校長が孔子は樹下に教えを説いたということを例にひいて開校の挨拶を述べた。集った教員は10名、学生は僅かに40数名に過ぎなかった。しかもこの後にも、東横とは校地の再契約や校舎建築資金の借入について交渉を続けなければならない状態であり、現在の「多摩美術大学」の銘板が掲げられるのは前述のとおり昭和28年(1953)であり、溝口の仮校舎で授業を実施して凌ぐなどで18年の時間の経過を必要とした。

昭和37年(1962)環状八号線建設の為のセットバックが行われ、この時に東側に面していた正門を北側に移設し、現在の北門となっている。左:移設後、現行の正門、中:北門の全景、右:石製銘板(拡大)
「学校は創立以来年々校舎並びに校地の周辺に銀杏の苗木5、600本、欅と槐(えんじゅ)の苗木50本が寄贈され、栃木県営林局より買入れた桐の苗木60本を校地の周辺に植えたのが幸いし、戦後10年を経たころには全部が大木となって校舎を緑でつつんでくれた。また躑躅(つつじ)300株を植込んだことで、戦時中から「つつじの学校」という評判をとって周辺から躑躅見物に来るようになった。ところがオリンピック開催に関連した環状八号道路計画のために前庭500坪ばかりが削りとられてしまった。そのために後に騒音と公害に悩まされる始末となったが、昭和34年にこうしたことを予見して八王子に10000坪の校地を求める計画を建てたのである。」
多摩美術大学村田晴彦元理事長の回想、多摩美術大学の沿革史、多摩美術大学の歴史=高橋士郎講義ノート、ウィキペディア
多摩美の大輪の花が咲く
多摩美の地域連携対応は、大学のホームページ等で確認でき、二子玉川はもちろん八王子でも種々行われていて、教育活動の一環というねらいも示されている。
地域連携アートプロジェクト「タマリバーズ」
二子玉川ライズが開業した平成23年(2011)から毎年開催、二子玉川ライズと多摩美術大学による地域連携アートプロジェクトであり、上野毛キャンパスの統合デザイン学科と演劇舞踊デザイン学科が協力し、企画の立ち上げからコンセプトの設計、脚本、演出、衣裳、小道具、さらにWEBコンテンツやポスターなどのメディア展開まで、学生が主体となって実施している。
平成28年(2016)からは、実践型授業「PBL(Project-Based Learning)」科目として産学連携カリキュラムを展開。アートやデザインを通じて社会とつながる学びの場となっている。

ライズのガレリアで、法被を着た若者たちが作業していた。目を凝らすと「美大のあるまち」と衿に染め抜かれている。なるほど面白いなと思ったが、誰が作ったのか「美大のあるまち」という表現は学生発想とは思えず、学生が作るなら美大生なりの違ったものになるような気がした。
学生の創造性に触れる「たまたまマーケット」
“出会いはたまたま、広がる多摩美の輪”をテーマに、学生が制作したアート作品や雑貨を販売。売り上げの一部は、一般社団法人二子玉川エリアマネジメンツに寄付し、二子玉川のまちづくり活動など公益還元する。
サブイベントも充実!
「お顔をはいしゃっく」フェイスペイントで妖怪に変身!
「お目目をはいしゃっく」学生によるちんどん屋が各所に“出没”
「思い出はいしゃっく」観客の皆さまが自らの思い出を提灯に描き、それらが舞台上に集まりひとつの象徴となる参加型演出企画。
「舞台をはいしゃっく」瀬田・二子玉川を中心とした地域の氏神さまとして、人々に崇められてきた瀬田玉川神社に赴き、今回のメインテーマである”記憶”に関連するご祭神に学生たちがご挨拶。
「二子玉川はいしゃっく」二子玉川にある商店を巡り、学生が制作した妖怪のアートワークを設置。
二子玉川の子どもたちと会場装飾を共同制作
二子玉川にある保育施設「はじまりはじまりえん niko」と「ロハスキッズ・センター クローバー」の子どもたちも広場演劇の演出装飾や小道具制作に参加。
街からの感謝も
当法人は令和6年12月12日に、学校法人多摩美術大学のタマリバーズへ当法人への寄付に感謝の意を表し感謝状をお渡ししました。本感謝状授与は、多摩美術大学と二子玉川ライズによる地域連携アートプロジェクト 広場演劇『タマリバーズ』において、学生による作品を販売するアートマーケット「たまたまマーケット」の売り上げの一部を当法人へご寄付いただいたことへの感謝として行ったものです。
一般社団法人二子玉川エリアマネジメンツ 代表理事 松本順一
その他
玉川高島屋S.C「ART SIGNプロジェクト」/2017~2019年
髙島屋によるサステナブルな暮らしを提案する「TSUNAGU ACTION WEEKS(ツナグ アクション ウィークス)」のプログラムのひとつとして、展示を通して環境や社会、人々にとってより良い未来づくりのためにできることを来場者の皆さまと考える「Re-MAKE」展を玉川髙島屋S・Cにて開催。生産デザイン学科プロダクトデザイン専攻の3、4年生27名の手によって、身の回りの使わなくなり、廃棄されるモノに3Dプリンターで制作したパーツを付加し、新しい価値を与えて別の用途の道具に生まれ変わった作品27点を展示。
新二子橋橋脚学生デザインによるラッピング装飾/2020年
心に残る「瀬田地域通学路ネームプレート設置プロジェクト」
目的
瀬田地域での児童を中心とする青少年の健全育成と、社会環境の整備、生活の安全等を図り、住みやすい「ふるさと瀬田」を創るため、 瀬田1丁目及び瀬田2丁目に、 住民に愛される道路用ネームプレートを作成設置する。
構成メンバー
・瀬田文教サミット(地域住民代表、学校関係者):事務局
・多摩美術大学:ネームプレートのデザイン制作、設置
・世田谷区・世田谷区教育委員会:設置場所提供などの各種サポート

「こひつじ幼稚園」は、日本バプテスト東京第一教会付属のキリスト教保育を行う幼稚園。満3歳児・2歳児クラスも設置されています。宗教を問わず入園可能で、お祈りや感謝の時間を大切にしている。

セント・メリーズ・インターナショナル・スクール。 カトリック教会キリスト教教育修士会によって設立・運営されている。わかな保育園。宗教法人法徳寺を母体として設立した。仏様の心を精神的基盤として、仏性の種を幼い子ども達に育み続けている。

夕日坂。唯一学校に関連しないが、距離からはこひつじ保育園、瀬田小の通学路と言えなくもない。瀬田小学校は、田園都市線・二子玉川駅より10分の国分寺崖線の上、緑に囲まれた閑静な住宅地の一角にある。
多摩美術大学別棟の工作センターは工作機械の管理の他、安全に使用する為の基礎・技術講習を開講しており、施設は授業、卒業制作、産学官共同研究等幅広く利用されている。
工作センターは 平成14年(2002)6月1日から交通安全ネームプレートの制作プロジェクトに参加している。翌年1月28日、瀬田地区に15作品を設置した。

20年以上の時が過ぎ破損?窃盗?されたものも見られるが、大袈裟に言えば残念ながら社会は我欲に支配される者をも内包していると言うことか。このプレートの寂しげな姿から戒めが発信され続けているような気もするが、破れ窓理論で助長されてしまうのかという心配もある。「世田谷の坂」というサイトでは2007年時の写真を見ることができる。夕日坂上部(写真:中)の標識は台座ごと根こそぎ盗られていて、瀬田名物の「フクロウ」、近くのこひつじ保育園を象徴する「こひつじ」、亀とか木とか月、可愛い飾りつけがなされていた。家の部屋にでも飾ってあるのだろうか。
残り3作品が未だ見つかっていないが、恐らく適地が限られひっそりと塀の下部とか、あるいは成長した植物の影に隠れているのかも知れない。きょろきょろしながら散歩することにする。


コメント