南風さんの辿った道
明治42年(1909)同郷の山中神風に連れられて上京した。上京する汽車の中で「南風」の画号を自ら選んだ。「十八史略・尭舜篇」のうち「南風之詩」から取ったものだった。上京後、神風の紹介により高橋広湖門下となった。
明治44年(1911)文展、巽画会などに出品を続けるがいずれも落選し、生活困窮に陥っていた。これを見かねた師高橋が自身の職であった報知新聞連載小説「徳川栄華物語」の挿絵の画を代筆させたことで月額30円の手当を得ることとなった。
明治45年(1912)師高橋は急逝し、死後も巽画会、勧業展、日本画会展などに出品するが二等褒賞や落選を繰り返し、南風はスランプに陥っていた。
大正2年(1913)第7回文展に出品した「霜月頃」が文展初入選、最高賞である二等賞を獲得、後に師事することとなる横山大観の激賞を受けた。また出品作「霜月頃」は旧熊本藩主、細川護立の買い上げとなったほか、南風自身も細川の庇護を受けた。
大正3年(1914)横山大観に師事した。この年日本美術院が再興されると文展出品を取りやめ、以後院展を作品出品先と定めた。
大正4年(1915)第2回院展「作業」は労働者の群像を描いたものだったが、師横山により題材の品について叱責を受けた。
大正5年(1916)絵画修業を目的として荒井寛方のインド旅行に便乗、カルカッタ周辺で2か月間、翌1917年ブッダガヤ、デリー、またこれらの帰路にボンベイに立ち寄って周辺写生を行った。
大正7年(1918)健康を害し、また極度のスランプに陥っている。
大正9年(1920)健康回復および気分転換のために弓道を開始した。またこの頃より花鳥画の制作を目的として東京近郊から山梨県にかけての写生旅行を行っている。これらのスランプ脱却活動は1922年第9回院展「桃と柘榴」にて横山に好評を受けるまで続いた。
大正12年(1923)9月1日、関東大震災発生。横山大観の安否を心配し、居住していた巣鴨から徒歩で上野に向かった。
大正13年(1924)日本芸術院同人に推挙される。
大正14年(1925)震災の様子を描いた「大震災絵巻」3巻を制作。
大正15年(1926)東京府美術院評議員に任命された。同年12月には巣鴨から小石川区(現文京区)の細川邸内の一画に居を移した。
昭和2年(1927)この頃より民謡踊りに熱中、同題材を求めて日本各地を旅行した。
昭和11年(1936)府下砧に転居。10月中旬、越後湯沢より秘境清津峡谷へ写生旅行をする。この頃より俳句を作り始め、武蔵野吟社に入る。
昭和13年(1938)東京と京都の画家広島晃甫、奥村土牛、小野竹喬、宇田荻邨、金島桂華、山口華楊、徳岡神泉などが集って結成された丼丼会に南風も結成メンバーとして参加。
昭和14年(1939)胃腸病の療養のため、甲府市外の油村温泉で10日間滞在する。
昭和15年(1940)自身初の個展を開催、自身の画塾「南風塾」を「翠風塾」と改称した。
昭和20年(1945)横山大観と共に山梨県山中湖湖畔に疎開した。
昭和22年(1947)この頃より聴力衰え、補聴器を使用する。
昭和26年(1951)日展運営会参事に就任。
昭和29年(1954)奥村土牛、酒井三良などと箱根旅行に赴いた。
昭和31年(1956)南風門と郷倉千靭門の門下生合同による塾展旦生会が結成された。またこの年、熊本県文化功労者に推挙された。
昭和33年(1958)長年師事した横山大観が死去。同年4月、伊東深水と共に日本芸術院会員に推挙。また5月には日本美術院が財団法人となり、南風は当初監事に就任、のち理事となった。
昭和34年(1959)熊本に帰省の折肺炎となり、熊本大学附属病院に3ヶ月入院。
昭和36年(1961)仙台、石巻海岸にスケッチ旅行、ついで5月、房州和田浦に滞在。
昭和37年(1962)秋田県を旅行。
昭和39年(1964)勲三等旭日中綬章を受ける。
昭和43年(1968)文化功労者に選出されている。
昭和44年(1969)熊本市名誉市民。
昭和46年(1971)2月、盲腸炎の手術をし、2週間入院する。10月9日、妻三栄、脳血栓のため死去。
昭和47年(1972)静岡県韮山町(現伊豆の国市)に山荘を求める。
昭和48年(1973)韮山町の山荘手狭のため、静岡県田方郡に山荘を建築する。以後当地に滞在することが多くなる。
昭和49年(1974)飛騨高山、下呂温泉に旅行。
昭和50年(1975)米寿を迎え熊本で「堅山南風米寿記念展」が開催。この年ポリネシアのタヒチ島へ写生旅行に趣き、以降の作品は色彩が更に鮮明になった。
昭和52年(1977)前年暮れより正月にかけて沖縄に旅行する。
昭和53年(1978)読売新聞紙上で自伝抄「思い出のままに」連載。
参照:東京文化財研究所HP、ウィキペディア
南風さんに関わる事々
「玉川病院」(瀬田4丁目)の近くに、堅山南風邸敷地に建った「ロイヤルシーズン瀬田」がある。
平成14年(2002)の地図にはこの場所には「南風記念館」の表示が見られ、マンションに建て代わる以前は竹林に囲まれたご自宅に併設されていたようだ。
東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事の「南風さん」の事績の項目の中に、
《昭和52年(1977)10月、村瀬雅夫著『庶民の画家 南風』が“南風記念館”から発行される。》とあるので、記念館の存在は間違いない。その後、記念館はどうなったのか、マンションの中にあるのかどうかは外に掲示がないので分からない。
令和5年(2023)南風さんの特集展示が「半蔵門ミュージアム」で行われ、関東大震災100年の節目の年でもあり、被害状況から復興に至る様子を描き留めた31枚の絵を、3巻の「大震災実写図巻」に仕立てたものが展示された。
※東大研とウィキペディアでは「大震災絵巻」とされている。

凌雲閣と西郷像(パンフレットの転写)

助け合いの様子(絵ハガキ写す)
大震災当日、巣鴨から上野・浅草方面まで歩いて向かう途中に目に留めた描写だとしても、この実写図巻は震災の2年後に完成されていて、師横山大観の安否を心配しながら、当日の被害状況や人々の苦悩、助け合いの様相(1~2巻)を頭に念写というかカメラで収めたような目力と記憶力は画家の才能の成せる技なのか、後日、資料等の助けがあった(特に3巻)と予想されるにしても、克明な描写力には驚嘆させられた。
一日、隈なく回ってスケッチしてという状況ではなかったように思えば、画家とはそういう力がそもそも備わっていると捉えるべきか。
「堅山南風」という大画家とお墓で偶然にも出合って、経歴等を調べる中でその人生の苦労の一端に触れたということもあり、作品に触れられる又とない機会であり是非とも行かなくてはならないと思った。
大震災実写図鑑の上巻は、被害の悲惨な状況。中巻は、被災で疲弊する様子。下巻は、協力して再建をする姿。がまとめられている。
大震災実写絵図説明文の一部
「大地欠烈」
郊外。踏ん張ってなんとか立っている魚の行商。木にしがみつく女性。地面の亀裂に落ちる男性。
「列車顛覆」
蒸気機関車と続く客車が脱線、横倒し。投げ出された人も。
「凌雲閣飛散」
浅草・凌雲閣。上階がポキっと折れて、落下する。地上に振り落とされる男性三人。
「呪ノ火」
倒壊した家屋の下から一人の女性を救い出す人々。その家屋に降りかかる火の粉、発生する炎、消火する男性。
「大紅蓮」
東京の街。赤(火)、黒(煙)、茶(白煙)で塗り込められる。
「運命谷(キワ)マル」
橋の上。橋の両側から黒煙が迫り、身動きができなくなった人々。川に飛び降りる人。
「却火急迫」
火から逃げる人々。馬車・自動車・荷車などで運ぼうとした家財道具は、火の粉が降りかかり燃え出し身捨てられる。暴れる馬。
南風さんは言う「忘れられぬものは強いて忘れようと努力しなくともよい。ただこれに対し吾等は如何なる教訓を得たか、その教訓を守って往けばよいのである。悲惨時だけを思って教訓を忘れてはならぬ。不断の心がけ、修養、信仰などはその重なる教訓であった。天災地変は何時何処に発生するか分らぬ。これに対する不断の覚悟は大切である。」
堅山南風と師横山大観
この大震災の時には南風さんも師横山大観も事なきを得たが、この後の「昭和の戦争時」は都心が度々空襲に襲われ壊滅状態に陥り、昭和20年(1945)3月9日のB29、300機の編隊は低空で侵入し殺戮の限りを尽くすのを目の当たりにして、南風さんが師を心配して避難するよう誘っている。
経歴を眺めると南風さんは昭和11年(1936)には“府下砧”に転居していて、その後間を置かずに小坂邸隣の現在地に移っていたようだ。断定されるのは瀬田と砧は隣町というぐらいの近隣であり、晩年に伊豆の韮山町に山荘を求め、一年を経ずして手狭という理由で、近隣の田方郡に移るという性向から類推する。
小坂邸の3か月を経て、この後、師横山大観と一緒に山梨県山中湖畔に疎開するが、南風さんは9月には帰郷している。
主な寺院への献作(奉納)
NHKのドキュメンタリー「東叡山寛永寺 根本中堂」の天井絵(番組では画ではなく絵とされている)の制作過程を追った番組を観て、天井画を描く画家の真摯な姿が映し出されていたので、参考として概略をまとめたい。
上野にある「寛永寺・根本中堂」は、明治維新の上野戦争で焼失し、明治12年(1879)川越喜多院の本地堂を、同じ江戸初期に建てられたことを踏まえて移築したという曰くがある。
この天井に「絵」を描く依頼を受けた日本画家手塚雄二氏(東京芸術大学名誉教授)は、400年前の天井板に直に描くことで時代をそのまま受け継ぐ構想を実行された。
令和2年(2020)依頼を受ける。
令和7年(2025)奉納天井絵「叡嶽双龍(えいがくそうりゅう)」完成。
4月24日「筆翰点晴(ひっかんてんせい)式」龍の手のひらに梵字を描く。
6月5日天井絵設置。
9月12日「点睛開眼(てんせいかいげん)式」眼に墨を入れ生命を吹き込む。
手塚氏は番組の初めで、依頼を受けた気持ちを(大意)「天井絵を描くことは、日本画家の夢に近い、天井絵を描くという光栄に恵まれた。」と話され、番組の最後には「精一杯、一生懸命できてホッとしている。ご本尊をお参りしている姿を、龍が見守っている存在であってほしい。」と結ばれていた。5年間の奮闘だった。
堅山南風 寺社絵画の取り組み
昭和39年(1964)勲三等旭日中綬章、昭和43年(1968)文化功労者に選出。こうした名誉が影響しているのかどうか、この頃から各地での活躍が目覚ましい。
昭和33年(1958)東京・深川富岡八幡宮に「鯉」の大額を奉納する。
昭和39年(1964)奈良、大阪方面を旅行、葛井寺(藤井寺市)の国宝千手観音像をスケッチし、第49回院展に「慈眼」と題して出品。
11月先年焼失した日光輪王寺本地堂の天井画「鳴龍」(狩野安信筆、昭和36年焼失)の復元依頼を受ける。
昭和40年(1965)4月から6月にかけて京都、奈良の寺社にある龍の絵を見学、11月末、下絵完成する。
昭和41年(1966)4月3日、「鳴龍」の本描きを始め、7月27日完成。

12月東京浅草待乳山聖天本龍院から依嘱の本堂天井画、内陣の大杉戸「朝暾」「夕月」の2面を完成する。
昭和42年(1967)11月、中禅寺(立木観音)五大堂外陣の大天井画「瑞龍」が完成する。
昭和44年(1969)6月、奥日光金精神社本殿の天井画「龍」を制作する。
7月、日光中禅寺五大堂の杉戸絵「牡丹」「唐獅子」四面を完成する。
昭和49年(1974)佐賀県基山町中山真語正宗滝光徳寺より依頼の「弘法大師像」「教祖像」の2点を完成する。
昭和52年(1977)9月、川崎市川崎大師平間寺より依嘱されていた「龍」が完成。
昭和53年(1978)6月、神奈川横浜市の孝道教団本仏殿の大壁画、「大雪山施身聞法」「永劫の光」「聖晨」「聖苑追慕」「歓喜のとき」天井画「瑞気一天」の6点が完成する。
参照:東京文化財研究所
瀬田玉川神社の神楽殿の老松
南風さんのご自宅からゆっくり歩いても10分はかからない所に「瀬田玉川神社」はあり、この神社の神楽殿の背景画については前節でふれているが、南風さんの事績とはいえ小さな地方の神社だからか歴史に残っていない。神社が要請したのか、南風さんが近所の誼で奉納したのか、神社のHPには詳しい説明がないのが残念無念。
愚痴っぽく言えば、蛭子能収さんは国旗掲揚塔、稲荷神社の鳥居、お賽銭箱の奉納や毎年、大絵馬の制作などご夫婦で貢献しているので、神社の力の掛けようもそれなりということのようです。
知人と神社の人の話だけで充分だと思いつつ、神社のHPなどを検索中に公的?な記述に遭遇した。世田谷区役所玉川第五出張所発行の「たまがわ第5ひろば」というミニコミ紙、昭和61年7月発行の第8号の1ページ下段「古くてアタラシイ瀬田」(ママ)において、鈴木武一さん、恐らく所長さんらしい方が「玉川神社に絵がのこる老松かいた先生は堅山南風と言ったっけ」と述べている。少し、すっきり出来た。

横浜の孝道山 本仏殿の大壁画
孝道教団(通称・孝道山)は、天台宗大僧正岡野正道と岡野貴美子によって設立された。「法華経」をよりどころとするが、仏教全般に共通する教えを説く。天台宗系に分類される。(ウィキペディア)
「横浜に孝道山が開かれたのは1936年(昭和11年)。僧侶である岡野正道(しょうどう)師(孝道山では始祖の岡野正道大統理(だいとうり)と呼んでいます)が、日々の生活の中に仏教の教えを生かすお寺をつくりたいと始めました。
以来、たくさんの人が孝道山に足を運び、仏教の智慧(ちえ)と慈悲(じひ・思いやり)に触れて、穏やかな心でいまを生きる力を養っています。」
「堅山南風氏(1887~1980年)の晩年の大作で、お釈迦さまの生涯を描いた仏教画6点が本仏殿に飾られています。
(仏像を描かずに、釈尊の一生を描いていただきたい。明るい色彩で、人間の生に未来と期待があるように)1980年に本仏殿を新築するにあたり、孝道山は堅山氏に仏教画の制作を依頼しました。
作品への思いを堅山氏は「お釈迦さまは、全ての生きもの―、石ころにも仏性があるとおっしゃった。仏性あるものを描くことは仏さまを描くこと。『一筆三礼(感謝)』の心で描かなければならない」(『想い出のままに』)と述べています。
本仏殿の壁画や襖絵6点は神奈川県内にあった孝道山の道場をアトリエに、1976年(昭和51年)秋から2年間をかけて完成されました。堅山氏91歳の時です。
堅山氏は制作にあたり、「立派な大道場の壁に私が筆を執るということはたいへんなことで、私のごとき老齢の者にできるかという不安な気持ちもありました。しかし反面、一度はこのような歴史に残る絵を描いてみたいという念願もありました。孝道山大道場のための絵を描くということは仏さまの思し召しである。全身全霊を打ち込んで描くこと以外にないと、勇気をもってお引き受けいたしました。この仕事は、まさしく私の生涯を飾る仕事であります。神仏のご加護によって必ず描けるものと信じます」と抱負を語っています。」
お断り:文中、慣れ慣れしく「南風さん」と呼称したが、地元の偉人への親しみであり、気に障った向きにはご容赦ください。


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