堅山南風(かたやま なんぷう)さんとの出会い 《岡本長圓寺》
いつもの散歩途上、ふらっと岡本の長圓寺に立ち寄り、お寺に立ち寄る習慣として手を合わせた後に墓地をぐるりと巡ることが多いが、このお寺は本堂に隣接する墓地と道路を挟んだ北側の墓地と2か所に分かれている。
このお寺には「榎本金六」という人の墓があるらしい。
「金六は筑後(福岡県)久留米藩の関流六伝藤田閑海の門人で和算の塾を開き多くの門人を指導した。彼に学んだものはかなり広範囲で、横根村瀬田村用賀村喜多見村大蔵村経堂村奥沢村等々力村鎌田村等世田谷南西部9ケ村に及んでいる。ここのお墓は門人たちによって建てられたと言われている。」
長圓寺に関する記述には、以上の同文の説明が申し合わせのように付加されていて、門人たちによって建てられたのなら特別感がありそうな形状も思い浮かぶし、案外、普通のお墓なのかもしれない。しかし苑内に榎本家を名乗るお墓は多く見られるけれども、「金六」を示すような墓石や石碑は見つけられないでいる。
お墓多さもさることながら、岡本を歩いていると「榎本」名のお宅によく出会うので、もしかすると「榎本金六」の後裔の方たちなのかもしれない。それが実在の証明とみることができそうな気がする。
江戸時代のお寺には、よくこうした私塾的な要素が備わっていたようで、近在では大蔵6丁目の永安寺、瀬田1丁目の法徳寺、高津区二子の光明寺などに言い伝えが残されている。
本堂を背中にして北に向かって歩けば、右側に六地蔵が並び大銀杏の向こうにはびっしりとお墓が建ち並んでいる。ドミニコ修道会(幼稚園)前の「ドミニコ修道会坂」(仮称、かつて映画のロケ地となり、物語では「首くくり坂」と呼ばれていた。)から通じて墓地を2分する道路を渡ると、北側墓地の入り口には大きな金木犀が立ち、季節は落下の頃なので約5メートル四方の地面が黄金に染められ、その天然の絨毯にそろりと足を踏み入れた目先で「南風さん」と出会った。正にバッタリであり、何の予備知識もなく墓前に向き合うこととなった。
榎本金六は見つからないが、「堅山南風」という著名(後に理解する)な人名に遭遇した。
お墓の右側に石板が設置されていて、いわゆる通常のお墓の「墓誌」を思い浮かべ興味本位に覗き込んだところ、故人の略歴の中で事績を紹介する云わば「顕彰碑」のようなものだった。個人のお墓で凄いなと思いながら、腰を沈めじっくりと読み進め旧字や送り仮名でわからない所は飛ばしながらも大意は掴め、このお墓の主は「堅山南風」という画家の“ご夫妻”であり、墓石には「堅山南風・みつ子」と並んで刻まれている。どれほど偉大な方かを分からず読み終わってその時は素通りしたが、碑文の「相和し、波風なく、銀、金の結婚式を挙げし」という素敵な言い回しが頭に残されていた。

堅山南風略歴(略の字は、碑においては旧字?)
堅山久雅(息子さんだろうか)
「南風名は熊次、父武次郎、母シゲ、明治20年9月13日熊本市東坪井町に生まる、幼少より画家たらんと志し 20才にして熊本の画家福島峯雲先生に師事す、23才東京に出て高橋 廣先生に師事す、3年にして師、死す、示後独修す 大正2年秋第7回文部美術展覧会に入選 最高二等賞得て盛名あり 此時より横山大観先生に師事し再興せる日本美術に参加す 大正13年3月同院の同人となり 昭和33年同院の理事となる、此年2月大観先生の卒去に遭う、然して4月日本芸術院会員となる、38年文化功労者に推挙せられ、41年勲三等旭日中授賞、続いて43年文化勲章授賞せられ、44年熊本市名誉市民となる、美術院同人以来幾多の著名作挙げて数う可らず、就中日光薬師堂天井の鳴龍図及び中禅寺五大堂天井の雲龍浅待 待乳山聖天寺本龍院の天井雲龍及び天女の三部作内陣の日月図他、美術院に出品せる制作にして瞳目すべきもの多く、識者の知る処なり
妻、みつ子は佐藤房吉の二女、22才、南風28才にして、大正4年3月結婚尓後相和し、風波なく銀 金の結婚記念式を挙げしが、昭和46年10月9日 急患の為めに死去す、行年78才也
因に南風1才にして母を 6才にして父 次で祖父 伯母 三人の兄弟総て冥界の人となる、只南風のみ長寿にして盛名を得るに至れり。
※旧字、旧仮名遣いなど転記ミスはご容赦のほど、漢数字は英数字に、点のない所は区切りに一マス空けている
「南風さん」を訪ねて
「堅山南風」という名前を知らなかったのでネット検索すると、93才で亡くなっていることと、住まいが巣鴨、小石川とか、府下砧に転居、別荘が韮山とか・・・「岡本」を想起させる記述はなく、なんで「長圓寺」なのだろう?と、思案した。
しばらく経って、ある人と話をしている中で、
「馬鹿ね、有名な人よ。瀬田に住んでいたのよ」という、そして玉川神社の神楽殿の背景画も南風さんの作品だと言うので、あ、「土地の人」なのかと、とみに親しみが募った。何故なら当地は明治の頃より政治家、実業家等の別荘や別宅が多く、また文人墨客なども大抵は移動が前提の一時的な「仮寓」に過ぎず、南風さんのように各所で活躍を重ね、そして後に二子玉川に定着して終焉を迎え、骨を埋めたという方は限られ正に「土地の人」と呼んでも過言ではなく、記憶に残すべき偉人の一人のように思えた。
実は、長圓寺周辺、岡本1・3丁目辺りを歩くときには、お墓があるならお住まいもあるだろうと予想して「堅山」の表札を気にかけていたのだが、有名な方であり直ぐに出会えるだろうと高を括っていたものの、意に反して見つからずにいた。地区内に実在しているのだろうか?
ある日、「小坂邸の庭園」(瀬田4丁目、岡本1丁目の町境)を散歩していて、《子どもが小さいころ何度も高低差10メートル位の回遊式庭園(池はなく湧水の流れがある)で遊び、自然に包まれながら体力づくりにもなり大いに助けられた。》湧水を見ようと庭園の中程に入り、開けた場所(お茶室跡)で石板に目が留まった。何度も来ていて周回通路の上り下りだけに満足して、この説明文に気が付かなかった不覚も、良く言えば当時は子育てに集中していたとも言える。いずれにしても南風さんの影が見えたような実感がした。

しばらく後、「玉川神社」で神楽殿の背景絵も確認し、お話を伺うとお住いは
「玉川病院の近くにあった緑が鬱蒼としたところで、今はマンションになっている」との事であり、畑の辺かな?面白い給水塔?があるマンションかなと思いながら、思い当たった所は「小坂邸」並びの竹林が鬱蒼とした角地で、確かに立派なマンションになっていて、「そうかここなのか」小坂邸とはお隣同士ではないかと納得。横山大観さんとのご縁もスッキリと理解できた。
(世田谷区編の「ふるさとを語る」には、横山大観さんは岡本民家園のホタル園の所に住んだという記述があり、ホタル園は現在、閉鎖されているので尚更、あの鬱蒼としたところでどんな生活があったのかと感じさせられ、恐らくは小坂邸の生活を土地の人は勘違いしたような気がしている。)
南風さんのご家族
明治20年(1887)9月12日、熊本市で、父武次郎、母シゲの3男として生まれる。本名熊次。
明治21年(1888)8月1日、母シゲ落雷のため不慮の死をとげる。享年27。
明治26年(1893)5月21日、父武次郎病没。享年40。以後祖父に養育される。
明治37年(1904)破産し、代々の家を閉じて、西子飼町源空寺に仮寓する。
9月、祖父武八没、享年82。
大正4年(1915)3月、佐藤光(のち、三栄と改名)と結婚。
昭和3年(1928)兄文八の借金返済のため郷里熊本にて画会を行う。
昭和39年(1964)4月、妻および養女久彩子ととも帰郷。
昭和46年(1971)10月9日、妻三栄、脳血栓のため死去。享年78。
昭和55年(1980)12月30日、肺炎のため静岡県田方郡の別荘で死去。享年93。
(同月24日の停電で暖房が切れ、この時ひいた風邪をこじらせたものであったが、寝込む直前まで絵筆をとっていたとの記述が残る。)
参照:東京文化財研究所HP、ウィキペディア

お墓は昭和49年8月に南風さんがご自身で建立され、竿石(さおいし)には自書とみられる達筆で夫婦連名の刻印がなされ、生前から二人のお墓にしたいとの思いが込められているように感じられる。
略歴と銘打った「碑」は建碑者が「堅山久雅」となっているので息子さんのように思えるが、南風さんのご家族に関する情報は限られているので確認できない。
兄の借金のために熊本で画会を開催した件と、「略歴碑」を建立した建碑者の存在と、唯一、具体的なものとしては「昭和39年妻および養女久彩子ととも帰郷」というくだりで養女の存在が確認できる。ただ、南風さんの来歴の中では唐突な記述であり前後に何の説明もないので、結婚50年にして養女の存在が明らかになったと受け取るしかない。
「堅山久彩子」で検索するとその存在は感じられる。玉川大学のHPでは、《堅山南風「武者小路実篤氏像」. 昭和30年制作 129×90cm 堅山久彩子氏寄贈》とあり、古書関係のサイトでは、《「南風・燃えつきて九十三歳」刊行年 昭和57年(1982)の著者紹介に堅山南風の養女、所定鑑定家》と記載されている。また銀座にある「みずたに美術株式会社」には、堅山南風鑑定委員会があり、鑑定人として堅山寿子(かたやま ひさこ)という方の名前が見られる。久彩子と寿子、同一人物なのかどうかは分からない。あるいは、同名の実娘という可能性も小さいが考えられる。
「略歴碑」の建立に関しては、ご家族を代表して「久雅」さんがいつ建てたのかだが、末文に「只 南風のみ長寿にして盛名を得るに至れり。」と結ばれているので、もしかして生前の制作という可能性も考えられるし、久彩子さんが出版した「南風・燃えつきて九十三歳」刊行との関連も考えられる。下衆の勘繰りになるので、ここで一旦しめることにするが、死後、作品の管理は娘の「久彩子(寿子)」さんに守られ、当面、実在(判る範囲)のお身内に「久」が付くので、南風さんの安堵も久しく続くような気がする。
【堅山南風② 南風さんの辿った道・主な寺院への献作(奉納) へ続く】


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