宇名根の『送電鉄塔』と近隣の鉄塔の幾つか

 宇奈根で見られる送電鉄塔は全部で6基あり、二子玉川駅から2㎞以上離れているからだろうか高い建物が少なく、かつて農村だった雰囲気が地域全体に感じられ、そうした中に鉄塔も郷愁を帯びているかの様に風景に馴染んでいる気がする。勿論、無骨な鉄骨の塊とかあるいは電磁波問題等に関心があり、複雑な心境な方もいるかも知れないことは心に留めながら抑制的に向き合うこととしたい。

左:千南線特8鉄塔、多摩川の河原にあるので増水対策の為に基礎がある。河原ではよく見られる形態のようだ

中:このレンガ造りの基礎は大正時代に開通した「群馬幹線」時代のものが採用されているらしい

右:手前が千南線特8鉄塔、奥は川世線27鉄塔(土手の外側にある)、この後、川世線30、千南線特10として合体する

 ここの鉄塔は「系統」でいうと、川世線と千南線の2系統で(系統名は、川=川崎、世=世田谷(おそらく)、千=千歳、南=南武《昔は武蔵国・別称武州といい、その南側地域だから南武と呼んだのかもしれない。近くをJR南武線が走る》という地名の一文字をとり合成)、“川世”については「南武変電所(川崎・高津区)」が起点となるものの、そもそもの電気は川崎の東京湾沿いの火力発電所から発しているので、“川崎と世田谷”を結ぶ幹線という位置づけとなっているようだ。

 一方、“千南”はというと、完全に南武変電所と千歳変電所(世田谷・千歳烏山)間の系統で、特の付く鉄塔番号で、鉄塔数は11基。川崎まではほぼ川世線と同じ鉄塔で、府中街道手前で分岐し、登戸線に分流しながら久地変電所を経て川世線から離れていく、そして多摩川を越えてから宇名根で再合流し(川崎―宇名根の分岐区間は6基)再び川世線と同じ鉄塔になる。

 川世線は上段15万ボルトの2回線、そして下段は6万ボルト2回線の千南線というように、電圧で線路名が分かれ、電圧の低い千南線は各駅停車のように電気を配給する役割を有している。

左:川世線18鉄塔(246号線(厚木街道)渋滞中の写真)、航空法では60mを越える構造物は目立つように彩色が施されるという規定があり、この場所は平瀬川が侵食した低地とJR南武線開設で開削されたと見える低地が交差する角地の高台となっている。又、近くを通る厚木街道はJR南武線を跨ぐ高架で、国道に近接する17鉄塔は比較すれば低く見えている。そして国道の反対側の旧大山街道はといえば高台でここに16鉄塔が存在し、16鉄塔から17鉄塔へは送電線が下がり、17鉄塔から18鉄塔へは上がるという関係性となっている。航空法の基準が地上高なのか標高なのかは不明。この色分けついては、港北線の場合は片側3車線道路の中央分離帯に大きな鉄塔が並ぶが、同じ高さの鉄塔が続く中でその内の1基だけが紅白に彩色されている。山の上の鉄塔などはヘリコプターで点検する際に、分かりやすく10本おきぐらいに彩色されているというような説明を見たような気がするので、そうした配置上の整理みたいな観点もあるのかも知れない。あるいは1基彩色されていれば、皆同じく60m越えと理解できるということも考えられる

中:宇奈根の街の真ん中で、川世線と千南線が合流する

右:約2㎞離れた兵庫島付近で開催される二子玉川花火大会を特8鉄塔越しに見る

 宇奈根の送電線鉄塔は大正時代から存在しているので、地域の風景の一部となっているように感じる。空を見上げれば送電線の合流があり、大正時代のレンガ積みの郷愁を伴う風格を感じさせる河川敷鉄塔、花火の時にはこの辺りの河川敷や土手にもシートを敷いて眺めるグループが少なくない。

 成城消防署の記録に「登頂者」救助(2007年8月22日)という見出しで、「宇奈根の送電鉄塔の頂上に登った女性が降りられなくなり、警察と消防が出動した。」とあり、笑っていいのか悲しむべきなのか女性は何を考えて上ったのだろう。高圧電線は1本では感電せず、2本同時に触ると丸焦げになってしまう。鳥は1本に掴まっているので無事にいられるらしい、納得。

 テロを警戒して鉄塔の位置を公表していないと東京電力は言っているが、地元の人は当然知っているし私のような素人がネットで知識を得られるので、無駄な抵抗のような気もする。

地域間落差(成城だけズルくない?)

左:川世線・千南線が宇奈根から東名高速道路を越えて、喜多見にある33、34鉄塔、多摩堤通り沿い

中:川世線・千南線41環境調和鉄塔(モノポール鉄塔)同種鉄塔しては、成城域内4番目で小田急線・成城駅前にある

右:環境調和鉄塔(モノポール鉄塔)成城域内を通して全15基ある

 成城域内での建替え工事は平成9年(1997)頃から始まり、駅周辺の工事完了は平成23年(2011)頃で、工事のし易いところから数基単位で始まったが、単純計算で1年に1基という進捗状況を見れば、関係者のご苦労は十二分に感じられる。名にし負う「高級住宅街」なので、建替え(60年説)の機会に住民や行政からの要望を踏まえて円筒型式への変更が行われたと想像できるが、この基数と周辺地域の様子からは「高級住宅地」だからという枕詞は適切ではないような気がする。何故この地域でこの数なのか、普通の鉄塔と円筒形で価格差があるのかどうか、冷めた目で見れば地域間落差のようなザワザワ感が心を過る。おそらく住民パワーが強かったのだろう。

等々力大橋(仮称)の建設と戸越線

上左:等々力大橋の工事現場、川崎側の河川敷の橋脚、奥に見えるのは戸越線2鉄塔

上右:同じく川崎側、土手上の橋脚、その先に戸越線1鉄塔

下左:東京側、目黒通り(等々力大橋起点)から戸越線2と1鉄塔

下右:戸越線2鉄塔の拡大

 等々力大橋の計画は平成2年(1990)事業認可、告示、その後道路拡幅などの準備が続き、平成29年(2017)になりようやく橋脚の着工が開始された。川崎側のパンフによると橋建設の費用は東京・川崎の折半のようだ。写真で見ると橋脚は川崎側3か所、東京側1か所が出現していて準備は進んでいるように見えるものの、東京側で土手上を通る「多摩堤通り」を土手の外に迂回させる用地の確保が進まない状況が障害となり、開通見通しは5年ほど伸び令和8年(2026)以降となるようだ。

 この路線は、港区・白金から続く「目黒通り」が川崎・宮内地区から新横浜まで繋がる、両岸にとってあらゆる点で重要な新路線であり一日も早い完成が待たれている。

 さて、テーマの送電線に話を戻すと、上の写真に写り込んでいる2基の送電鉄塔はとても珍しいものらしい。等々力大橋の写真で満足していて、たまたま何気に、本当についでに調べてみたら、戸越線という系統の鉄塔で多摩川両岸の2基だけが存在し、川崎の南武変電所から品川の戸越変電所を経由して東京湾沿いの天王洲変電所に電力を供給しているとのこと。戸越変電所は品川区のパンフレットで今はないとあるので、令和3年に行われた下水道管の長距離、シールド工事に際して地下化されたのかも知れない。いずれにしても戸越線は多摩川両岸の2基の鉄塔以外、全て地下化されているという実態のつかみ難い系統だった。

変電所・送電鉄塔の沼に“ハマ“りそう 玉電と「都南線

 「変電所探訪編」というサイトの南武変電所を開くと「戸越線と都南線は多摩川を渡り都内まで向かいます。」と紹介され、この二つの系統はグーグルマップで確認すると間隔が直線で1km弱で、そのため同列の扱いとなっているようだ。第三京浜道路に並行する「都南線」は、南武変電所から駒沢変電所までを結ぶ系統で、「塔マップ」さんのサイトに依れば45基の送電鉄塔が存在する実態のある系統であり、興味深いところは鉄塔が「駒沢公園」を迂回するように建ち、「なぜ?」という疑問がわくような配置となっている。

 まず日本最初の東京オリンピックの会場だったことが思い浮かんだが、駒沢変電所の竣工が大正2年(1913)なので見当違い、次に明治になって軍隊の進出が盛んになり「駒沢練兵場」という名があり、軍隊では相手にならないと納得しながらも、明治期の軍隊の駐留は池尻、三宿方面という理解があったので調べると、池尻から駒場にかけて一帯を駒沢練兵場と呼んだらしい。

 別案として駒沢ゴルフコースという理解は最初からあったものの、このコースは大正3年(1914)開業という年数に囚われて要因から外していた。ところが“golfpedia”というサイトに辿り着き、計画は明治末に有志によって始まっていたという情報を得て迂回せざるを得なかった理由が確定できた。そのゴルフ場が東京ゴルフ倶楽部であり、井上準之助(日銀総裁)をはじめとした政界・財界の指導者有志が発起し、完成後の大正11年(1922)には英国皇太子と日本皇太子(昭和天皇)が親善ゴルフを楽しまれたと聞けば、格式から見ても疑いようはなく合点がいく。

玉川電気鉄道との関係性

 明治41年(1908)からは沿線の世田ヶ谷村と駒沢村で電灯の供給も開始している。翌年の臨時株主総会で専務取締役となった津田興二は兼業の電灯電力事業の将来性に着目し、明治44年(1911)に富士瓦斯紡績の経営者・和田豊治と契約、40万円の出資を得ると共に、富士瓦斯紡績から受電(富士瓦斯紡績は自社の紡績工場用の発電所を建設し、余剰電力を販売する兼業を行っていた)することにした。それまで自家発電のほか東京電灯から若干を受電していた玉電は、自家発電は予備とし、富士瓦斯紡績からの大規模な受電に切り替えた。(玉川電機鉄道の設立と展開 三科仁伸、東急100年史)

玉電、中興の祖・慶応閥・津田興二の政治力?

 「酒匂川線は、富士瓦斯紡績が、峰水力発電所(5,400KW)~駒沢変電所間に、電圧66KV、こう長73.32kmの規模で、大正2年(1913)8月に運転開始させた送電線である。同社は玉川電気鉄道に電力を供給する契約を結んだため、駒沢地点まで送電線を建設することとなり、酒匂川線を建設したものである。建設時には、東京幹線、別名峰駒沢線と呼ばれた。」(特殊な・めずらしい形の送電線)

 ひょんなことから二子玉川の「玉電」に送電鉄塔の話がつながり、ビックリするやら嬉しいやら検索冥利に尽きる「都南線」だった。系統名は差し詰め都内ー南武というところか。

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世田谷側から見た都南線13鉄塔

由良兵庫助に導かれた「環境調和鉄塔」 武蔵新田

左:相武線30鉄塔  中、右:相武線29鉄塔

 二子玉川の「兵庫島」に伝わる新田義興にまつわる事件の背景を探るため、武蔵新田近辺を徘徊している時に環境調和鉄塔(モノポール鉄塔)に向かい合うことになった。鉄塔といえば宇奈根の「四角鉄塔」しか知らなかったので、電柱にしては太く高いし見上げれば幾本もの送電線が見られ、一瞬見てはいけないものを見てしまったようなどぎまぎ感を発していたように思う。少し動いて前後の鉄塔を確認すれば普通の四角鉄塔であり、この1基だけが「環境調和」を必要としているとは思えない地域の実態があり、おそらく写真に見られるように工場らしき建物に張り付くように建っていることから、建設場所の問題があったのかも知れない。

 送電鉄塔も地域発展の中で様々な条件を乗り越えることが求められているようだ。因みに「相武線」は横浜市港北区の「綱島変電所」と、東京都大田区の矢口変電所を経て地下ケーブルで「池上変電所」につながっている。系統名についての説明は見当たらないが、新田義興終焉の地なので太平記に因んで「相」は相模の国(相州)、「武」は武蔵の国(武州)だとしたら、当時の計画にあたった人には絶大の賛辞を贈りたい。

月4回ほど行くスーパー銭湯の見聞① 港北線、昭和40年(1965)頃から開発が始まった「港北ニュータウン」の東西を結ぶ「新横浜・元石川線」道路の中央分離帯に建設され、西東京変電所から港北変電所まで57基の鉄塔が連なる

月4回ほど行くスーパー銭湯の見聞② 柿生(かきお)線、川崎火力3番線41、柿生線41鉄塔、坂上の有馬変電所に併設された見栄えの良い位置にある。西東京変電所から有馬変電所の少し先の方で川崎火力線と名を変え京南変電所へ結んでいる。柿生という名前は通過する地名だと言われているようだ

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月4回ほど行くスーパー銭湯の見聞③ 北浜線は京浜変電所と 港北変電所を結び、北旭線や大倉山線を併架している。53鉄塔は通常(無色)、続く3基は紅白、奥に細く見える57鉄塔は着色がなされていないように見える。第三京浜の港北インター上を通るので特別な鉄塔なのかもしれない。

プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、この地が“青山“となる予定。元より新住民ですので、これまでは環境の良さ、便利さをただ享受するだけでした。
●数年前から散歩し調べたりしていると、殊の外、奥深い歴史を内包する土地の姿が浮び上りました。
●子供らが土地の歴史・文化を学ぶ機会は少ないような感じ。生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しい、知っているのと知らないのでは、人間観・人生観に醸し出す味わいが違ってくるように思います。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を “堀上げ” 整理することが目標です。

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