二子玉川の小泉次大夫②

二子玉川の小泉次大夫にまつわる『三題話』

1、原家には「植松氏」の血が流れている

 玉川4丁目の原家は、昭和9年(1934)玉川に定着して、昭和11年(1936)玉川瀬田町605番地(現在の瀬田4丁目環八通り沿い)において「二葉練乳商会」を興し、長島牧場に付属する牛乳処理場を設置した。

 元々、地元の名家の柳田家が直接経営していたのかどうかは不明ながら、当初、「柳田牧場」だったようだ。明治38年(1905)、上野毛の覚願寺の前から環八沿いに千坪余りの「木村牧場」が開設され、上野毛の名家木村家が経営しているので、この時期、明治4年(1871)頃まず都心で牛乳搾取業として旧士族が参入し、外国から乳牛を購入するなど酪農乳業が興り、これが明治30年代になると都心部では請売、販売店に変わり、搾乳業は周辺11区に移って行くという流れがあった。

 恐らく「柳田牧場」も同時期に開設されたのかもしれない。また、この地域では目黒あたりの牧場から子牛を預かって大きくするという役割を担っていて、大きな農家では4~5頭預かることが行われていたようで、誰かがやるという環境が空気のように漂っていたのかも知れない。

柳田牧場から長島牧場(玉川盛柳舎)

 長島仙太郎という人が明治の末に〝静岡〟から瀬田に移住して、柳田牧場を引き継いだようだ。ただ「柳」の一字が残っているので、この時はまだ完全に柳田氏が手を引いてはいない感じもある。長島氏は仙太郎という名から長男?と思えるが、いずれにしても静岡出身ということは多いに引っかかる。

 話を原家に戻すと、原篤三郎は故郷の新潟を後にして単身上京した。時は明治33年(1900)。

 明治9年(1876)創業の株式会社「秀英舎」という出版を業とする会社に落ち着き、ここで働いている間に、静岡・由比出身のある発展家(以後、便宜的に由比氏と呼ぶ)の知遇を得て、日本橋・茅場町の印刷所を紹介されることになる。この印刷所の社長は、発展家の紹介で「沼津の植松家」から嫁を迎えていた。そして話の流れか、篤三郎はその妹と縁がつながり、大正4年(1915)結婚に至り、大正15年(1926)には東京市麻布区霞町で分家した。

沼津・植松家小情報

 沼津市「松長」は、東海道本線原駅から沼津方面に向かって一駅の「片浜駅」近くに在所がある。もう一駅先に行けば沼津駅という、沼津で有名な「千本松原」の中程に位置している。

 昭和に入り秀英舎は退職することになるが、この会社は昭和10年(1935)大日本印刷と社名を変更し、日本を代表する印刷会社に成長している。

 篤三郎は「由比氏」と話し合いを重ね、瀬田の長島氏(前述)も加わり、牧場経営・牛乳加工業の計画を進めていた。こうした中で、由比氏は茅場町の印刷会社社長の長男と自らの妹を結び付け、社長の長女は篤三郎の長男と結ばれた(長女の婚姻は自由恋愛だったらしいが、この一連の流れは原宿の植松家の姻戚関係の広がりに通じるものが見られる)。

 長男・篤が結婚した昭和9年(1934)、篤三郎は玉川町1596番地に転居していて、いよいよ本格的に独立の時を迎えている。奇しくもこの年、二子玉川に小泉次大夫に縁がつながっているかも知れない「植松家出身」の縁者が定着した。篤三郎の妻千枝とその姉の血を引く「原数子」であり、数子は102歳で亡くなるまで日赤活動を中心に町会で役割を果たし、瀬田4丁目の玉川寺に骨を埋めている。

 長島牧場・二葉練乳は昭和20年の終戦後も継続されているが、環八の拡幅工事が戦災地復興計画という名目で昭和21年(1946)から始まり、瀬田交差点を含む“僅かな区間”が拡幅された程度で、本格着工は昭和31年(1956)となっているので、僅かな区間が牧場にかかったのかどうか、あるいは10年後の本格着工まで営業を続けられたのかもしれない(はっきりした記録はない)。

奥の瀟洒?な建物が牛乳加工場と思われる

奥の瀟洒?な建物が牛乳加工場と思われる

 環八拡幅が結果的に牧場の閉鎖につながっていくが、戦中から既に食糧難という大問題に対応し、牛乳生産の増強を図るために国策的な取り組みが始まり、長男の篤は牧場経営を離れ、資格の取得や新たに作られた企業に就職している。昭和18年(1943)には更なる生産増強の為の政策的統合が行われ、その中で原乳係主任として各地の牧場から生乳を集める仕事に従事した。終戦後の昭和21年(1946)東京乳業株式会社の生産課に落ち着き、課長を経て昭和26年(1951)明治乳業株式会社に変わり、本社酪農部原乳課長、主基工場長、横浜工場長等々、牛乳生産一筋に現場でその力を発揮させた。

2、宇奈根の小泉家は次大夫の子孫?

グーグルAIによると

 「世田谷区宇奈根にある「小泉整形外科医院」の院長家が、江戸時代初期に六郷用水・二ヶ領用水を開発した代官、小泉次太夫(吉次)の末裔であるという説には、地域の歴史的背景から見て一定の信憑性があると考えられます。小泉次太夫と世田谷・宇奈根のつながり地域の開拓者: 小泉次太夫は徳川家康の命を受け、多摩川の両岸に農業用水(次太夫堀)を整備しました。その功績により、現在の世田谷区宇奈根や喜多見を含む地域を知行地(領地)として与えられていました。」

ということのようだが、知行地を与えられていたかどうかは、大きな疑問を感じる。

 ある書籍で以下のような指摘がなされている。

 「宇奈根の小泉家は、徳川家康の用水奉行として六郷用水、川崎二ヶ領用水を竣工させた「小泉次太夫」の傍系の子孫で、寛文(1661~1672)の頃から土着した素封家である。」

3、次大夫堀と治大夫橋

 多摩川左側の用水は「六郷用水」というのが正式な名称であり、ところがなぜか世田谷では「次大夫堀」と呼び、〝次大夫橋〟や次大夫堀公園などの呼び方が使用されている。川崎側では小杉陣屋町と地名を残しても、ニケ領用水の名称は全体を通して使用され、東京側は狛江にも陣屋が設置されたようでもその痕跡はなく、又、名称も世田谷を除く全体では六郷用水と呼び、一部、大田区の鵜の木辺りでは「女堀」とも呼ばれている。

 川崎も東京も用水に関しては次大夫の名が一切使われていない中で、何故か世田谷だけが堀名、公園名、そして橋名に使用する。橋名に関しては、「次」を「治」に変え「じだいゆう(治大夫)」と読ませるような面妖さがあり、この点は橋の制作担当者の意図を聞かなければ分からない事であり、仮名手本忠臣蔵のような「実在の人物との同一性を否定する」という法的・社会的な防衛策(幕府からお咎めを受ける)という大時代的な要因が当時あったのか、次大夫が登録商標だったなんてあり得るべくもない、もしかすると単に気まぐれか。一体どう整理されているのだろう。おそらく今の役所の人は誰も理解していないような気がする。

 無理やり関連づけて思いを巡らせば、この橋のたもとには長崎氏の旧屋敷があり(外形的理解、明治の時代には若山牧水が逗留していた)、そこを次大夫が臨時の陣屋として活用していて、名主の長崎氏も付きっ切りでお世話し、その一連のご苦労話を聴取したことが「次大夫名称」の利用につながった(?)。当時の世田谷の役所は純粋だったのかも知れないが、この橋名の扱いだけは全く理解不能といわざるを得ない。

その後の次大夫

 慶長16年(1611)に二ヶ領用水、六郷用水が完成。その功績により武州5万石の代官となり、本田・新田の1割が新たに支給されている(大田区北糀谷付近)。家督と代官職を長男の吉明に継がせ一旦隠居したものの、元和元年(1615)大坂の陣に吉明が参戦し死亡(病死説あり)したため、代官職に復帰。元和2年(1616)に徳川家康が死去すると次大夫も出家し、剃髪入道して宗可と号した。

関係資料=二子玉川の小泉次大夫

((多摩川両岸物語①)地域力推進蒲田西地区委員会)、ニケ領用水物語、川崎ゆかりの人物、ウィキペディア、世田谷区教育委員会 民家園、【広報ふじ昭和60年】富士のあゆみ5、富士下方、北条得宗家の領国化に関する一考察 渡邊定正、獅子浜植松家戦国文書、駿河原宿帯笑園の訪問者について II 一宿内とその周辺からの訪問者一 小野佐和子、苗字のルーツは日本の歴史、玉川村 江戸・近世、明治期の牛乳事業の発展と経過、けやきの里、ふるさとを語る・上野毛

プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、まだ“新住民”の範疇で、環境の良さ、便利さをただ享受しています。
●でも二子玉川を散歩し調べてみると、殊の外、奥深い歴史を内包していることが分かりました。
●子供たちが歴史や文化を学ぶ機会は少ないようなので、ただ生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しいと感じ、いつか目に留まる機会を期待して、土地の物語を紡ぎます。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を 、出来るだけ“堀上げ” 整理することが目標です。

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