二子玉川の小泉次大夫①

四ケ領用水について

 天正18年(1590)徳川家康は小田原後北条氏滅亡後、豊臣秀吉の命により関東に移封され、ただちに力を入れたのは街道の整備と農業生産の拡大だった。

 当時、多摩川沿いの村々は川の流れに接しながら水利が悪く、荒れ地、砂礫の草原ばかりで4・5軒から10軒ぐらいの集落が散在していて、この様子を見た小泉次大夫は用水工事により新田開発が進むと家康に進言、代官に任命された。

 次大夫は多摩川の右側の小杉と左側の狛江に陣屋を設け、慶長2年(1597)右側・稲毛、川崎(ニケ領用水)と左側・世田谷、六郷(六郷用水)の四ケ領に及ぶ用水工事を陣頭指揮し、その完成までに14年を要した。

※次大夫の漢字表記は、次太夫、治大夫、治太夫など混在しているが、本稿では太に点がない「大」が正しいという指摘を採用する。

六郷用水が良く示されている

非常に詳細で大変有難い地図でも、これ程劣化したものが放置状態に置かれていると、文化財に向き合う意欲の不足を指摘せざるを得ない(場所は大蔵6丁目、永安寺先となる)

富士宮の植松家=「小泉次大夫」の出自

 天文8年(1539)駿河国富士郡小泉郷(現在の静岡県富士宮市小泉付近)で、今川義元家臣・植松泰清の長男・吉次として出生。

富士宮市の「小泉」の地は、新東名の新富士インターから国道139号線を山梨方面に向かった直ぐの所にある。

 植松家は河内源氏の支流の甲斐源氏新羅三郎源義光流であり、植松氏初代信清は甲斐源氏の嫡流清光の九男で承安2年(1172)駿河国小泉に移住して頼朝の挙兵に参加し、また兄小笠原遠光とともに奥州合戦で勲功を立て富士郡上方小泉の地を頼朝から恩賞として賜った。

 二代信継は文治2年(1186)熱原に移住し、岩間を掘削し谷間を掛樋で通して、用水路を構築し田地を開発した。三代以降も引き続きは熱原に居住し、江戸時代には幕府より樋役(高低差を利用して水を通す木枠の管理)を命じられ、熱原(鷹岡~伝法)用水路の全般の管理は明治の時代まで続いた。

鷹岡伝法用水

 「現在の鷹岡地区から伝法地区にかけて広がる水田地帯は、鷹岡(たかおか)伝法用水(通称二本樋(にほんどよ))によって開けたものです。このかんがい用水路は1186年(文治2年)付近の開発を進めるためにつくったものです。富士宮市山本地区の潤井川(うるいがわ)に取水口をもち、富士山麓特有の傾斜地をうまく利用して天間南部から入山瀬、久沢、厚原(熱原)を経て伝法まで全長6.4キロメートルあります。今日まで800年間、その間幾度か改修され、整備されてきましたが、この用水路のもたらした功績ははかり知れないものがあります。二本樋を管理した植松家の長屋門は、広見の歴史民族資料館に復元されています。」(読み仮名等一部修正)

 この事業は当時、富士郡地頭北条時政が差配する、富士郡田所(たどころ、田地管理の役所)の許可を必要とするものであり、時政が頼朝の新恩によって富士郡の地頭に補任され地頭経営を開始し、更に甲斐源氏を味方につけるべく働き、その過程において甲斐の植松氏を富士郡に結び付けたのか、更には可能性として得宗家の被官になるような契機があったのかもしれないと指摘されている。

「原宿」における植松家

 富士宮の小泉郷から直線で約16㎞、沼津の千本松原が途切れる西方、東海道13番目の宿場となる「原宿」は、富士山の南側に広がる愛鷹山山塊が駿河湾に迫る様に近づく辺り。現在、山裾には東名・新東名の両高速道路が走り、次いで東海道新幹線、国道1号線(東海道)、一番海岸側はJR東海道本線が通り、東西に通じる今も昔も要衝の地であり、戦国時代初期には北条早雲が支配したと言われる「興国寺城」が新幹線線路上(興国寺城跡の一部を開削している)に聳えている(この表現は立地が東海道から見上げるような高さゆえの想像、現在は城跡のみ)。

 武田氏の家臣だった初代出雲季重(?-1623)が、天正12年(1584)原宿に居を定め、開墾、植林を進め、花卉類を蒐集し、やがて花長者といわれるようになった。

 「植松家は、宿内外に広大な土地を所有する大地主であった。天保2年(1831) の総持高は1105石とある。10石1町の割で考えると110町, つまり110haの土地を所有していたことになる。このうち他村の小作料徴収や収支勘定は賄人と呼ばれる代理人に任せ、宿内の土地も、その多くは小作に出していたと思われる。手作り経営の規模は不明だが、常時20人を下らない下男下女を抱えていたことから、実質的な農業労働や家政は、これら下男下女が担っていたと考えられる。」

 植松家の蒐集した花卉類をあしらった「帯笑園(たいしょうえん)」は、東海道を行きかう人々が訪れるほど名が知られ、庭内の亭や浴馨榻(よくけいとう、屋根付きの縁台)で憩い、富士の眺望や種々の珍しい植物を観賞することのできる庭だった。近代に入り皇族の訪問も多く、大正天皇は皇太子時代に18回も訪問したとされている。

広範囲に姻戚を張り巡らせる?

 植松家の姻戚関係の広がりは、宿内においては問屋職の次郎右衛門は植松家の分家で本家と並ぶ資産家であり、また浅間神社の神主掃部も植松姓となる。本家・分家・新宅の三つの家系に分かれていて、分家・次郎右衛門家の植松東渚(?- 1806)は国学者であり『駿州名勝志』を刊行した。新宅・植松碧の妻・植松ちよ(1901−1984)は、静岡県保母会初代会長を務めている。

 宿外では代々、婚姻等により駿遠一帯で他家との関係を深めていて、下記はその一例

 「植松与右衛門季敬は、代々与右衛門を名乗る植松家の八代目の当主であり、学山あるいは蘭丘と号した。明治19年(1886) に没し享年79才であることから考えると、日記執筆当時45-6才である。家族は妻みちと末弟の斧五郎、息子の伊勢松、彦之介、娘のしげ、たたの7人であったと思われる。季敬にはほかに、田方郡重寺村の秋山家に嫁いだそみ、富士郡比奈村の渡邊家に嫁いださや、同郡平垣村に養女に出したしほがいた。妻は平垣村松永安兵衛の娘でみちと称した。」

 養子となった斧五郎に関して、由比宿の岩邊家は由比城主の由比助四郎光教が桶狭間の戦いで討ち死にしてから、その子権蔵光広が帰農し、代々岩邊郷右衛門を襲名し本陣職・問屋職をつとめ、近郷きっての名家として大名的な存在であったといわれ、養子縁組にかかわる儀式も大がかりで、世話人には比奈村の渡邊半左衛門、吉原宿の鈴木伊兵衛、蒲原宿の長野京助が名を連ねている。

 「まず、嘉永6年4月22日世話人の一人渡邊半左衛門が、24日の内杯を申し入れてきた。斧五郎は10日ほど以前より菱屋主人と一緒に身延山の参詣に出かけて留守なので断ったにも関わらず、吉日だというので24日に岩邊家の親類が使者としてやってきた。そこで、斧五郎が不承知の場合は縁談をとりやめるという一札を世話人が連名で差し出して、内杯がかわされた。書面が作成されて内杯の使者が招き入れられたのは夜中の2時、帰ったのは明け方4時頃である。」

 「次いで5月2日には結納がかわされた。その日植松家には、岩邊家の使者2人に供の者2人、荷物運送の指揮監督にあたる才領、釣台持・駕籠かき人足、草履取合わせて11人に、伊兵衛と京介の世話役2人が供を従え、総勢13人が夜になって訪れた。次郎右衛門、平兵衛、嘉兵衛が相伴となり結納を交わし終えたのは明け方で、由比からの客は皆菱屋に泊まった。」

 「翌安政元年3月20日には名乗里開に由比からの客が女や子供をまじえ、下男15人を伴って総勢26人で夕方菱屋に着いた。名乗里開の内容についてはよくわからないが、内杯からおよそ一年後であり、養子の縁談に関わる一連の儀礼の一つだと考えられる。米屋平兵衛や天野屋五郎右衛門も招かれた座敷での宴が果て、一同が眠りについたのは明け方の4時すぎである。そして翌日、江戸へ出発する郷右衛門を囲んで隠居の桜草の前で酒を出している。昼過ぎの郷右衛門の出発後、残りの客たちは菱屋へ招かれ、子供たちは踊りをやって楽しみ、夜中2時頃帰ってきている。」

 鎌倉時代初期に移住した富士宮・植松氏と、小田原北条氏滅亡の頃移住した原・植松氏の関係についての直接的な記述はない。しかし出身が同じ甲斐の国ということを踏まえれば、全く無関係ということは考えにくく、原・植松氏の成功は、110ヘクタールの所有地であれば直線で16㎞の近さを思えばどこか接地する可能性があり、両家においては少なからぬ関係があったことと推察する。

因みに「日本苗字アトラス」によると、植松姓の世帯数は富士宮243、富士171、沼津333となり、現在も濃い関係性が続いているような気がする。

徳川家康との出会い

 「小泉次大夫の名前はかつて「次太夫」と書かれていた。しかし近年の研究(平成2年(1990)以降)で次大夫が実際に出した文書などには点がない(大)ことがわかり、以後最近は点をいれずに「次大夫」と書かれている。」

 次大夫の生家植松氏が今川氏に仕えたのは7代喜内清直から13代泰清までの間とされ、今川義元が永禄3年(1560)に桶狭間の戦で討ち死にして、子の氏真(うじざね)が家督を相続したものの、次第に家運が衰え永禄12年(1569)には武田・徳川・北条に領国を奪われ、次大夫は小泉郷の旧領を離れざるを得なくなったと言われている。(氏真は家康に庇護されている。)

 天正10年(1582)信長と同盟を結んでいた家康の軍勢は甲斐に攻め入り、その際、次大夫は井伊直政と本多正信の斡旋で幕下に加えられ、鑓(やり)をもって奮戦し首級をあげるほどの働きをした。全身7個所に手疵を負い、とりわけ膝の筋を突かれて足が不自由になり、家康は軍事を離れさせたという。

 家康は、次大夫が鷹岡伝法用水を開削した植松兵庫頭信継の縁者であり、伝承された土木技術や知識を有し、用水開掘・治水事業の専門家として理解していた節がある。天正18年(1590)家康の江戸入府。最重要課題の関東開発に、用水開削などの土木技術に明るい小泉次大夫が代官に任命されたのは、家康の長い目線の帰結だったといえる。

次大夫の改名諸説

1、小泉郷に由来して家康らに小泉姓で呼ばれたので、植松姓から小泉姓に変えた。

2、藤原姓小泉氏となった次大夫吉次は、河内源氏の駿河小泉氏と生家の甲斐源氏の駿河植松氏の両方を意識した(養子説)。

3、今川氏滅亡後、徳川家康の武田氏攻略に加わり家臣に取り立てられ小泉姓を賜った。

 この後、樋代官を勤めたほどの家柄である植松氏13代泰清の長男だったが、植松家の家督は弟に譲っている。

プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、まだ“新住民”の範疇で、環境の良さ、便利さをただ享受しています。
●でも二子玉川を散歩し調べてみると、殊の外、奥深い歴史を内包していることが分かりました。
●子供たちが歴史や文化を学ぶ機会は少ないようなので、ただ生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しいと感じ、いつか目に留まる機会を期待して、土地の物語を紡ぎます。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を 、出来るだけ“堀上げ” 整理することが目標です。

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