二子玉川の「宝塚」? 川上児童楽劇団

波瀾万丈の物語

川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、戸籍名 川上 貞(旧姓:小山、小熊説もあり)

明治 4年(1871)東京・日本橋、両替商・越後屋の12番目の子供として誕生

 新政府の時代となり銀行が誕生し、生家は没落、7歳の時に葭町(人形町あたり)の芸者置屋「濱田屋」の養女となる、「小奴」の名もらい、日本舞踊や唄、三味線など様々な芸の修業を続けた。

明治19年(1886)葭町で一番の芸者が継ぐ名「奴」を襲名し、自分の名一字を加えて「貞奴」となる

 日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は時の総理伊藤博文が旦那となるに及んで、日本一の芸者と言われるようになった、この頃に福澤桃介との淡い恋を体験している。

福澤桃介(旧姓・岩崎)

慶応 4年(1868)埼玉・川越市で生まれる

 16歳で上京、慶應義塾に入る、卒業時に福澤諭吉から次女の房と結婚して婿養子となるよう誘われ、2年半のアメリカ留学を経て帰国後に房と正式に結婚した。

明治22年(1889)北海道炭礦鉄道(後の北海道炭礦汽船)に社員として勤めるが、結核を患い辞職

 貞の悲恋は「桃介さん、歩む道は別でもお互いの道で必ず成功しましょう」と諦めて終わった。

川上音二郎との出会いと結婚

文久 4年(1864)九州・博多、黒田藩士その後豪商の次男として誕生

明治11年(1878)継母と折り合いが悪く、14歳で家を飛び出し大阪を経て、芝・増上寺の小僧となる

 増上寺への散歩が日課だった福澤諭吉の目に留まり、慶應義塾の書生(住み込みで雑用も担う学生)となる。学生となっても勉学に励むというより、金持ちの学生に便宜をはかり、寄席や落語や講談に出かけていた。卒業後、警視庁巡査になるも続かず、逆に反政府運動で逮捕、投獄されるなど落ち着きどころを得なかった。

明治22年(1889)世情を風刺した『オッペケペー節』で一大ブームを巻き起す

明治24年(1891)泉岳寺にある赤穂義士の墓が荒れ果てているのを見て、貧者救済の名目で寄付をした

 失恋で自暴自棄となり、傷みを引きずる貞を見かねた養母が、話題となっていた壮士芝居に誘った。浅草・西鳥越町の「中村座」、舞台に現れたのは散切り頭にハチマキ巻いて、羽織袴に陣羽織、手には日の丸の軍扇という出で立ちの川上音二郎。貞は、パワー全開で暴れ吠えている狂犬のようなこの男に心を鷲掴みにされてしまった。

明治27年(1894)音二郎と貞の結婚、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎が媒酌人をつとめた

 結婚前には、音二郎がフランス演劇観察に渡る費用を貞が負担したと言われている。その後の関係性の分かる挿話のような気がする。

 レート白粉の宣伝広告の一説。「美しいのは好ましいもの、醜いのは嫌なものだということは昔も今も変わりはないのでございます。けれども同じ美しいと申しましても、花の艶麗なのを好むものもあり、月の清澄なのを好むものもありまして、蓼食う虫も好々と申しているぐらいで、同じ美しいという好みも、到底一致をみることは出来ますまい」

世界を股にかけて

明治29年(1896)東京・神田に川上座を開場

明治31年(1898)第5回、6回総選挙に出馬し落選

 多額の借金を抱え夜逃げ同然に、妻、姪、愛犬と共に、築地からボートに乗り海外を目指して出航する。3か月余り漂流して神戸に辿り着き、このことが評判となり「川上一座」のアメリカ行きが舞い込んだ。

明治32年(1899)神戸港を出港

 歌舞伎の真似事を演じて、東洋の珍しい演劇として話題を集める。興行師が売り上げを持ち逃げし無一文になったり、女形の役者の死という困難を経て、女の役は女優が演じるものというアメリカの流儀に倣い、切羽詰まって貞が運命の舞台に立つこととなった。この時から昔の芸者名「貞奴」となる。

 芸は身を助ける、歌舞伎役者並みの稽古を積んでいるので、エキゾチックな貞奴の美貌と写実的な演技が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得ている。アメリカのマッキンリー大統領に謁見する快挙も成し遂げた。

明治33年(1900)勢いに乗って音二郎一座はイギリスに渡る

 日本風でシェークスピアのオセロを上演、好評を博し、ヴィクトリア女王にも謁見を果たした。その後、パリの万国博に出演し、ロダンやピカソ、アンドレ・ジッド、プッチーニ、ドビュッシー等、ヨーロッパの人々を虜にした。

 パリ社交界では着物風のドレス「ヤッコ・ドレス」が流行し、貞奴は「マダム貞奴」と呼ばれ大絶賛され、フランス政府からオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授かっている。

帝国女優養成所と児童劇団​​

​​​ 帰国後、貞奴は「日本の芸術は女を人形にしますが、アメリカの舞台では、私たちは生きた女性として自分を見せるのです」と言っている。

明治36年(1903)引退を決意していたが、求めに応じて「オセロ」を上演、日本における女優の第一号誕生を史上に刻んだ。

明治41年(1908)東京・芝に帝国女優養成所を設立

 貞奴はアメリカで女優たちと交流し、演劇学校や劇場を視察することで、身を以て日本の演劇界が抱えている問題に気づいた。女優がいないこと。芝居小屋で飲み食いしながら芝居を見る環境の悪さ。俳優の社会的地位の低さである。貞奴はこうした問題を自分の活動を通して改良をしていこうと考えた。そのため入所資格は16歳から25歳まで、高等小学校以上の学歴と保証人2人と、高いハードルを設けて上流階級の令嬢を集めることに成功。一期生からは森律子や村田嘉久子を輩出した。(同校はのちに帝国劇場付属技芸学校に引き継がれる)

明治44年(1911)川上音二郎死去。享年47歳。

 自らが建てた大阪「帝国座」舞台上で死を迎えるという芝居がかった演出?が本人の希望により用意されている。

(講談師の神田蘭さんは、貞奴の気持ちを代弁し「色んなことがあったけど、音さんとだったらなんでも乗り越えられちゃう。サービス精神旺盛なエンターテイナーで、憎めなくて、かわいい男だったわ」と文末で言っている。)

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死亡を伝える当時の「下野新聞」の記事

大正 6年(1917)引退。夫音二郎の志を継ぐべく、貞奴一座を率いて7 年近く演劇活動を続けた

 この後、貞奴は初恋の相手だった福澤桃介と暮らすようになっていく。具体的な年月は不明ながら、大正9年(1920)頃に名古屋市内に居を定め「二葉御殿」と呼ばれ、著名人が集うサロンだったといわれている。NHKのドキュメンタリー番組では、「電力王」と呼ばれていた福澤が木曽川の大井ダムの建設で窮地に陥り、地元説得のために貞奴に助けを求めたという筋書きを紹介していたが、いずれにしても別々の道を歩み、夫々成功を見て、お互いのすべてを許し、恋から愛へと想いを昇華させたようだ。桃介の妻「房」公認だったかどうかは気になる所。

  福澤桃介 昭和13年(1938)東京渋谷の本邸にて死去。享年69歳。

  川上 貞 昭和21年(1946)熱海の別荘で死去。享年75歳。

  福澤 房 昭和29年(1954)死去。享年74歳。墓所は桃介と同じ東京都の多磨霊園。

わずか8年間、儚き夢の「川上児童楽劇園」 ​

大正13年(1924)53歳の貞奴は私財を投じて「川上児童楽劇園」を開園した。

 鉄道路線を引き、合わせて宅地開発、そして集客のための劇場設置と専属の劇団、まさに小林一三が実現した宝塚歌劇団の発展に倣うような流れが二子玉川で起きていた。玉電は砂利運搬から旅客事業へと方針を転換し、二子玉川駅西側の「大人向け」の娯楽施設に対して、大正期に入ると子供を含む家族向けに狙いを定め、大正11年には駅の近くに玉川第二遊園地を開設した。貞奴の「楽劇園」はその玉電の開発地域の外れ、まだ桃林の一角だった場所に「白鷺」の如くに舞い降りた。玉電と打ち合わせたのは想像されるが、東側を見ればテニスコートらしき施設が見えるだけで一面が桃林と畑の状態、玉川プール(国際試合も開催された)が開設されるのはこの一年後だった。考えようによっては、最良の環境だったのかも知れない。

強力な指導陣

 二子玉川の楽劇園は、明治期に長年こだわり続けた次世代の演劇界を担う人材の育成を視野にいれた試みで、協力者として児童教育者の久留島武彦が運営に加わった。大正に入ってから急速に児童劇への関心が高まり、大正2年(1913)には宝塚少女歌劇団がうまれ、坪内逍遥も大正 10年(1921)頃に児童劇運動を展開している。

 関東大震災(大正12年)の直後にスタートした楽劇園の特徴は、規律を重んじ、その教育基準を少年団日本連盟(ボーイスカウト)におき、園生達の私生活と舞台の両方にその要素を求めた。

 指導陣としては、震災で活動を諦めていた才能や、活動の場の変更を迫られた才能を教授として迎え入れている。

【音楽】『時計台の鐘』を作詞作曲した高階哲夫夫妻。

  昭和3年(1928)には山田耕筰の作曲、川上児童楽劇園合唱で『秩父宮様』というレコードを出している。

【器楽指導】海軍音楽隊出身の久松鉱太郎。

【ダンスの指導】高田雅夫と原せい子夫妻。

【日本舞踊】音二郎一座の海外巡業に同行したこともあった中村仲吉。

【文芸担当】生田葵山。

【舞台監督】岡本帰一。

  岡本は大正11年(1922)創刊の児童絵雑誌『コドモノクニ』で絵画主任をしていて、この雑誌内で最も人気のある画家だった。

男女共学、助け合いの園生活​​

 年代の異なる30人ほどの園生たちは男女共学で助け合いながら寮で生活をし、義務教育を終えていない児童は寮から近くの学校に通いながら舞台に立つための練習にはげんだ。ヴァイオリン、ピアノといった弦楽器、フルート、オーボエ、クラリネットなど木管楽器などとともに、バレエ、日舞、歌、演技の指導を受けた。

地元の人が見た楽劇団

 「そのそばに、川上貞奴の川上児童楽劇団の養成所がありました。二階建で一部が三階になっていました。階下の練習場ではそのころまだ珍しいピアノや三味線など、いろいろの楽器の音色が聞こえ、日本舞踊やバレー(洋舞)の練習をしている気配でしたね。」

 「ちょいちょい貞奴が一人で三味線を弾いていたり、お弟子さんたちのお稽古をみていたのを見かけたそうです。その弟子の少女たちは、あんか坂を登って京西小学校に通っていたといわれています。」

​​二人の視点、迫りくる暗雲​​

 貞奴は昭和元年(1926)頃になると楽劇園だけでなく新派の専用劇場も兼ねた劇場建設の計画を有し、楽劇園の子どもたちをエンターテイナーとして成長させようと思い、一方で久留島は玉川電気鉄道の娯楽施設開発、拡張に合わせて楽劇園を少年団にならった組織にしたかったようだ。貞奴は子どもの成長を、久留島は楽劇園という組織を見るという、向かう方向に齟齬ができつつあった。ダンスの指導をしていた高田雅夫と舞台装飾を担当していた岡本帰一が若くして亡くなったことも、貞奴の気持ちを重いものにした。

 未練なく絹布工場を手放し二子玉川に夢の児童楽劇団を設立したことは、貞奴の舞台への夢が捨てきれない心の現れでもあり、帝劇の会長だった福沢桃介の後援で、帝劇において何回も公演し、日本各地を巡業し、さらに当時日本の統治下にあった台湾や満洲へも足を伸ばし活発に活動を続けたが、運営上の問題と当時の日本の政治の状況(大正14年(1925)の治安維持法制定に始まり、昭和4年(1929)の世界大恐慌、昭和6年(1931)の満州事変、昭和7年(1962)の犬養毅暗殺と、第二次世界大戦に向かって娯楽が日常から姿を消していく時代)が重なり、如何ともしがたく、「川上児童楽劇園」は昭和7年(1932)、開園から8年という短命でその幕を下ろすことになった。 

 楽劇園で教育を受けた園生の中からは、ヴァイオリンやチェロの才能を開花させて後年指導者になったものや、松竹少女歌劇団に入団してダンサーとして舞台に立った少女もあった。貞奴は密かに自らの想いとその努力を​胸に抱き、福澤桃介と共に木曽の水力発電事業に傾注して行った。(この一節は個人的な感想)

参考資料:けやきの里、川上貞奴の演劇活動 田中美恵子、女と男の恋する日本史談 神田蘭、ウィキペディア、古地図散歩、国会図書館デジタルアーカイブ

プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、まだ“新住民”の範疇で、環境の良さ、便利さをただ享受しています。
●でも二子玉川を散歩し調べてみると、殊の外、奥深い歴史を内包していることが分かりました。
●子供たちが歴史や文化を学ぶ機会は少ないようなので、ただ生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しいと感じ、いつか目に留まる機会を期待して、土地の物語を紡ぎます。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を 、出来るだけ“堀上げ” 整理することが目標です。

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