二子玉川という「地名」は存在しない(弐)

双子のような「二子(ふたご)」と「玉川」 その②

 土地を巡る種々の因縁を縦軸(時代軸)に、大山街道が「二子の渡し」を介して両村を貫通する生活軸(横軸)が絡み合い、多摩川の河岸地域という「相似 」と「相克」が両地域には見て取れる。

第四の視点 兄弟喧嘩・土地争い

 多摩川は高低差を伴い、比較的、短い距離を流れ下るので、川を挟んで向かい合う地域の両岸には、その蛇行により分断された同じ名の地名がいくつも存在し、その為、川向こうの「所有地」の管理のためにこの地区だけでも3本の渡し場があり、自然のすることに対して「自若」として臨んでいたことは、高津区・諏訪の名家、小黒さんの「主に農耕地は今の玉川高島屋デパートのある諏訪地域でした。」とのお話からも伺える。しかし「共有のような形態」の土地の場合は、時に「土地争い」に発展している。

元禄5年(1692)の頃​​ 瀬田村・諏訪河原村寄洲訴訟裁決書​ 

 瀬田側にあった秣場(まぐさば)を巡る土地争いは、従来から川を村境としてきた原則と、川の移動による損失をどう考えるのかという問題でした。

 瀬田村の主張は、川筋は流れ着いた通りに決まるのが慣例であり、「自然には逆らえない」という自然主義、原則論。一方、諏訪河原村では、秣場(まぐさば=馬の飼料や田畑の肥料とする草を刈り取る場所)はかつて川の南側にあり、間違いなく諏訪河原村に帰属していて、村境は“以前”の川筋であるべきと主張した。

 「「古川敷」際には草地が広がり、「論所」(問題の場所)と記されている。ここが諏訪河原村の主張する秣場である。「古川敷」際に墨で境界線が引かれ、線はそのまま図中央を南北に抜けている。線から論所(秣場)を含む東側が諏訪河原村、西側が瀬田村と定められた。」

彦根藩の馬の管理が任されていた?​

 争論に至った「秣場」が、大切な場所ということが認められたようで、諏訪河原村に戻すような線引きとなっている。そもそも個人所有地は流路の移動に関わりなく、相互の所有権が認められていた実情があり、秣場が川向うにあったと認めつつ、瀬田側があえて「いつ頃?の従来」の考えを持ちだし​​​​​​共有を拒絶したのは何故なのか。飽くまでも憶測とするが、彦根藩の馬を世話していたといわれる「下野毛地区」に関連していたように思える。

 裁定図の北側(下部分)と東側(左部分)に上野毛村が見える。更に(図には見えないが)左には下野毛村があり、彦根藩領の時代はこの地域一帯は「荏原郡」とされていて、上野毛に対して文字通り「国分寺崖線」の「下」という対比の地域でした。下野毛地域もご多聞に洩れず、多摩川を跨いで入り組んでいたが、明治45年(1912)多摩川右岸は神奈川県となり、左岸の世田谷でも昭和7年(1932)野毛町と変わっているので、下野毛の名を残すのは、現在は川崎側だけとなっている。

 「下野毛の秣場」の位置は特定できないが、古い地図では今の野毛一帯と川崎側を合わせて「下野毛」であり、川崎側に存在したのかどうかも分かりませんが、瀬田に限れば野毛地区は国分寺崖線と多摩川が接近し、放牧する場所は限られるように見える。川を挟んで南に諏訪河原、北に瀬田、この両方に接するのが下野毛であり、もしかすると諏訪河原と瀬田の論争は、下野毛の代理論争だったのかも知れません。

二子玉川の「桜田門外の変」

 彦根藩は、この訴訟のおよそ60年前の「寛永10年(1633)」に、この地域の領主となっている。そうだとすると彦根藩の馬が、当時、多摩川の河原で草を食んでいた可能性はあり、それを感じさせる「一文」があります。「江戸時代の下野毛村には井伊家の軍馬を養う秣(まぐさ)場(牧草地)があり、また参勤交代の折には村の有力者たちが供をした。井伊世田ヶ谷領では格別に井伊家とのつながりが深かった村の1つで、また村人もそれを肌身で感じていた。」

 当時の仕組みとして、「助郷(すけごう)」という制度が普通にあり、基本、宿場ごとに人馬の提供が義務付けられていて、日によって定数を越える時にそれを補う制度。品川宿(荏原・豊島郡)では62の定助郷の村を二組に分け一年交代(負担軽減)とし、勤番の村々から選んだ惣代が出人馬を調べて、「助郷高」に応じた数にならないときなど調節をする役目があった。こうした調整は、通常の場合は「加(か)」助郷が予め指定されていたが、特別な「大通行」(将軍の継統(出典資料のママ)について祝儀のために下向した勅使などの公家や、その謝礼のために上京した将軍の名代など)に際しては、上野毛・下野毛・野良田・岡本・大蔵・鎌田・弦巻・用賀村等の16村が「増(まし)」助郷に指定されるなど、支配下の村々には役務が課せられていた。下野毛村の場合は助郷に関しては脇役でしたが、「軍馬」を養っていたという異なる筋合いの役務があったとすれば、その特別感は一層、際立ちます。

 『下野毛村にとんでもない知らせが飛び込んで来た。万延元年(1860)三月三日領主直弼の死だった。名主の家に集まってきた村人たちは怒り、且つ藩主の死を悲しんで、次のようなことを衆議一決する。

 一、今後三月三日の雛祭りは一切行わぬこと

 一、端午の節句もせぬこと

 一、以後、彦根藩と共にすること

 第三の決議は、どのような形で現れたのか判らないが、第一と第二の決議は今以て旧家の間では守られているという。以前、これを破ったがために子供が死んだということがあったという。それはともかく、一つの習わしがこの下野毛に続いている。彦根藩の関係者がこんな律儀なことを、今やっているだろうか。』

(上記の『』内の文言に関して引用元資料を探していて、残念ながら今のところ見つかりません。見つかり次第この( )書きは削除することとし、今のところは「民話の類」と受け止めて下さい)

 世田谷の大場代官には昼頃、急報が入った(大場美佐の日記)ようであり、当日、上巳の節句で集まっていた地区内の名主たちには直ぐ伝えられた。

勝海舟が褒め称えた彦根藩の対応

 水戸の脱藩浪士ら18名による決死の襲撃により、井伊直弼(なおすけ)は首を取られてしまう。対した供侍60数名は、生憎の雪模様で刀に柄袋(つかぶくろ)を施していたので対応が遅れ、主君を守れなかったことにより軽傷者は切腹、無傷の者は全員斬首、家名断絶となった。攻めるも大変、守るも大変、本当に命懸けの出来事でした。

 当日命を落とした8人の藩士は手厚く葬られ、井伊家の菩提寺に「桜田殉難八士之碑」を建て供養され、その一生を直弼の墓守として過ごした遠城謙道(おんじょうけんどう)の墓(首座塔)と共に、直弼の墓に寄り添っている。(武士には覚悟が求められていたという好例)

 藩邸には事件直後から、復讐の挙に出ようとする藩士が詰めかけてきた。尊皇攘夷派であったため、保守派の井伊直弼と対立して罷免され、国元へ帰国する直前だった岡本黄石(おかもとこうせき)が事後処理にあたり、「私怨をはらすことより、国の大事を優先すべきだ」と3昼夜に渡り説得し続けた。

 その間に井伊直弼「討ち死」の事実を糊塗するために、「そこで井伊家、遠藤家(直弼の首が持ち込まれていた)、幕閣が協議の上で、表向きは闘死した藩士のうち年齢と体格が直弼に似た加田九郎太の首と偽り、内向きでは「遠藤家は負傷した直弼を井伊家に引き渡す」という体面を取ることで貰い受け、事変同日の夕方ごろ直弼の首は井伊家へ送り届けられた。その後、井伊家では「主君は負傷し自宅療養中」と事実を秘した届を幕閣へ提出、直弼の首は彦根藩邸で藩医・岡島玄建(玄達説アリ)により胴体と縫い合わされた。」当時の公式記録に「井伊直弼は急病を発し暫く闘病、急遽相続願いを提出、受理されたのちに病死した」と残される。

 井伊家の菩提寺・豪徳寺にある墓碑に、直弼の没日が「安政七年三月三日」(1860年3月24日)ではなく「萬延元年閏三月二十八日」(1860年5月18日)と刻まれているのはこのためである。これによって直弼の子・愛麿(井伊直憲)による跡目相続が認められ、井伊家は取り潰しを免れた。(岡本黄石が家老として支えた)

 勝海舟は、「黄石が思慮のない男だったら、幕府も屹度(きっと)これが為に倒れるし、必ず日本全国の安危に関わる。冷ややかな頭を以て国家の利害を考へ、群議を排して自分の信ずる所を行った。(氷川清話より)」と絶賛した。結果的に8年後に江戸城は無血開城となったが、勝海舟の頭の片隅にこの事件があり、無益な戦いを避ける努力の源となっていたのかも知れない。

 瀬田・諏訪河原の土地争いが、「桜田門外の変」にまで及び長い寄り道でしたが、争いからおよそ150年後の下野毛村の「三つの覚悟」を思う時、実際に余程の関係が保たれていたと感じられ、「単なる牧草地」の争いが、井伊家の馬の存在に影響されていたのかもという気にさせられる。

の視点 多摩沿線道路と多摩堤通り

 多摩沿線道路(川崎市主要地方道幸多摩線(さいわいたません))は、神奈川県川崎市幸区河原町から川崎市多摩区登戸新町に至る、主要地方道に指定されている政令指定都市の市道(川崎市道)であり、登戸で多少ギクシャクするが、そのほとんどが多摩川の堤防に沿っていて、いくつかの交差点渋滞を我慢さえすれば快適な通行ができる。南側を並走する「府中街道」よりは断然走りやすい為か、大型車両の通行が多い点が特徴的。

 一方、多摩堤通り(東京都道11号大田調布線(おおたちょうふせん))は、東京都大田区から東京都調布市に至る都道(主要地方道)であり、一部区間(田園調布―野毛間)は堤防上を通っている。これ以外は、街中を縫うように走り、お世辞にも走りやすいとは言えない。ただ、河原に接近している部分が限られるので、河川敷との馴染み易さは東京側に軍配が上がる。北側を走っていた「品川みち」は、すでに普通の道路に吸収されていて見る影もない。

何故、川崎と東京で多摩川沿いの道路の形が違うのか

      左は多摩沿線道路(高津区二子付近)          右は多摩堤通り(二子玉川公園)

 両写真は、多摩川のほぼ同じ地点です。多摩堤通りは二子玉川駅から二子玉川公園までは、片側2車線に拡幅されています。二子玉川公園展望広場下のトンネル部分です

 川崎側の道路事情は「アミガサ事件」(後述する)に通じているような気がする。急の要を理解した当時の神奈川県の「有吉知事」は、対岸の大田区の築堤反対の動き等で決断しない内務省の許可を待たずに、“郡道かさ上げ”工事に着手し、中止命令をものともせず懲戒処分覚悟で工事を進めながら、内務省と交渉を続けた。大正5年(1916 )9月に完成した「嵩上げ道路=堤防」が歴史に名を残す「有吉堤防」であり、多摩沿線道路にはこの時の行政と一体となった熱い想いが込められ、ある意味、条件反射的に川に沿った道路が受け入れられたのかも知れません。用水の項で述べたように、行政が川崎市だけということも大きな要因としてあげられる。今は交差する道路も少なく、信号が少ない便利な「府中街道のバイパス」として大型トラックが多数通行し、道路に平行して川側に「高規格堤防」も整備され安全も確保されている。惜しむらくは、通行量が多いことで川と住民が分断されているように見える点は、最善の選択に多少の「犠牲」は仕方がないとされたのかも知れません。

 地図を見ると、多摩川は川崎市幸区付近の競走馬練習場辺りから、六郷橋を頂点にして「タコの頭」のように川崎側に大きく蛇行しています。大正の時代は今の流路とほぼ同じとみれば、奔流がタコの頭にぶつかり左岸の大田区西六郷方面に向うと共に、右岸の川崎側も被害は免れない位置関係にある。川崎に堤防的なものが出来れば、大田区に奔流が集中するという心配が地元にはあったのかも知れません。これ以前に、「東京側でも神奈川・東京の村長や地主ら50名余によって「多摩川河身改修請願」が出されているが、政府の財政的事情や国策としての帝都防衛の必要があり築堤申請は認められなかった。行政に対し正面突破を図ることがいかに難しいかは、今も昔も同じ。住民が決死の行動に出た川崎側、代表者が請願した東京側とで問題対処への向き合い方が分れ、「首長」が住民に寄り添い(国の方針に逆らうかのような対応もした)、単独行政で調整が不要だった川崎側の僥倖。この地域の特性には、この時の遺伝子が組み込まれているような気がする。

 多摩川両岸の同じ方向へ向かう道路でも、これほどの好対照な姿をみれば、夫々の地域の行政とか住民の特性のようなものを感じないわけにはいきません。

の視点 アミガサ事件​​と多摩川の改修

川崎の民衆が起ちあがった

 「大正3年(1914)今の川崎市幸区、中原区に住む住民約200名が「多摩川に一刻も早く堤防を」と訴えて、神奈川県庁に押し寄せた。道中、より広範囲の住民も加わり、総勢は500名近くになっていた。明治40年(1907)と明治43年(1910​​)に立て続けに多摩川で大洪水が起こり、特にひどい被害をこうむったこの人々にとって築堤は長年の悲願だった。この時、彼らが「アミガサ」をかぶっていたことから、この事件は「アミガサ事件」と呼ばれている。​​

 この行動は各所の多摩川改修請願運動に飛び火して、総合的な多摩川改修工事へと実を結ぶことになった。多摩川で最初の本格的かつ大規模な改修工事は、流域の住民からあがった声がきっかけとなった。

改修工事の流れ​

大正 5年(1916)神奈川県は「道路の改修」という名目で、県独自の工事を進めた「有吉提」​

大正 7年(1918)国直轄事業として着手。

大正 9年(1920)本格的な築堤工事が始まる。

大正12年(1923)護岸工事に着手。

大正13年(1924)川の中のドロを機械でさらう工事が始まる。

昭和 2年(1927)水門や樋管などの付帯工事に着手。

昭和 8年(1933)改修工事のすべてのスケジュールが終了。

昭和 9年(1934)河口から宇奈根までの近代堤防竣工。

 「当初、8年での完成を目指したが、「第一次世界大戦」後の物価高騰や、大正12年の「関東大震災」の発生に伴う予算の減額や工事の繰り延べがあり、16年という期間を要した。」

    左:玉川東陸閘          中:玉川西陸閘              右:久地陸閘

 東、西陸閘は河川敷に残った料亭への通行や、砂利採取のトロッコが通行する為に、久地陸閘は当初、砂利採取が目的でしたが、その後、河川敷のスポーツ施設利用者の為の車両の通行に供されている。これらの陸閘は洪水の危険が迫れば、厚い木の板で閉鎖される。

二子玉川の問題 例外的な措置の常態化

 野毛あたりまで工事が進んでくると、立ち並ぶ料亭から前面に堤防ができると景観が悪くなり、営業に差し障るとして工事の合意が得られず、料亭の中に当時全盛の「玉泉亭」(昭憲皇太后もお成りになった由緒ある料亭と言われている)​​​があったことも影響したのかどうか、堤防と川の間に料亭や田畑を残す計画に変更された。洪水になった場合は、無条件で立ち退くという但し付きの約束でしたが、その後、砂や砂利の需要が増して川底を掘下げたことで水害の心配は激減し、形骸化した約束は、料亭の廃業や土地価格の高騰などで農地も転用され宅地開発が進み、一級河川の堤防の内側(二子玉川南地区)に民家が存在するという珍しい地域となった。

放置できずに暫定堤防の整備

 今回新しく整備する堤防は、当面の安全性を確保し、早期に整備が可能な計画高水位までの暫定堤防なので、本来必要な堤防の高さを有する旧堤防(陸閘がある所)は撤去しない。」という方針は、たぶん住民の意向を最優先にした結果であり、反対行動を未然に防ぐ意味があった。本来の必要とされる高さ(旧堤防の高さ)にすると土手の底部が広がり、土手に近い住宅への影響と道路(緊急用)の確保が困難となり、何よりも圧迫感を住民に与えるとしている。

 当面の安全性の確保という言葉が全てを言い表している。計画高水位は過去(明治43年)の最大規模の水位記録が元とされ(「アミガサ事件」のきっかけの一つとなった洪水)、近年、帯状降水帯多発による環境激変がいつ起こるかも知れず、決して安全が確保されたとは言い切れないが、降雨量によっては国交省のポンプ車が出動して排水し、住民を保護する手はずが整えられている。こうして「二子玉川南地区」は、旧提と新堤二つの堤防に守られる堤内地となっている。

​​ 平成26年(2014​)完成(「二子玉川公園トンネル上」階段から二子玉川駅までの間)

そして残された無堤防地点

 この後、平成30年(2018​)から「二子玉川駅から吉沢橋」までの河川整備のための「水辺地域づくりワーキング」が始まり、令和3年(​2021)までに9回開催されたが、残念な事に令和元年(2019)台風の溢水でマンション地下に濁流が流れ込むなどの被害もあり、「二子玉川洪水!」と報道され遠くの知人から心配の電話をいただいたりした。下流側(二子玉川南地区)の工事と連動していれば間に合ったのが、吉沢橋からの計画ということは「野川」にまつわる工事であり、恐らく工事主体が違うのか、役所内のいろいろで一気呵成にとはならなかった。住民をなだめながらの準備、そして多摩川の「支流」ということで、わずか100mに満たない区間が取り残され、結果的に誰にも責任が及ばない天罰のような被害が起きてしまった。国の事業だとしても「無堤防」の状態を解消するために、世田谷区が根性を入れて要請する必要があったと思う。行政の力は起きてから試されるのではなく、起きないようにすることがより重要になる。

第七の視点 小河内ダム(奥多摩湖)多摩川の下流では

 小河内ダムは​​安定給水を目的とした、東京都水道局の利水専用ダム​​として昭和13年(1938)起工。昭和32年(1957)完成している。​建設計画は昭和初期に始まったが、ダム建設予定地である旧小河内村の用地買収の難航、着工前から続いた神奈川県との水利権を巡る水利紛争、戦中戦後の資金資材面での諸問題などにより、着工から完成まで19年の歳月がかかった。​

 「竣工当時、水道専用貯水池としては世界最大規模の貯水池だった。現在も水道専用貯水池としては日本最大級を誇っている。現在、東京都の水源は利根川水系を主としているが、渇水時の水瓶として極めて重要な役割を担っている。また、東京都交通局の発電施設(多摩川第一発電所)も併設されており、発電された電気は東京電力へ売却され、奥多摩町・青梅市などの東京多摩地域に電力を供給している。」

強硬な神奈川の抗議​

 ダムの建設構想に関しては、多摩川下流にある神奈川県稲城、川崎ニヵ領用水組合が抗議した。「多摩川の上流は東京かもしれないが,下流六郷川(多摩川の地域名称)は神奈川県にも流れている。稲城、川崎二ヵ領用水は、六郷川の右岸の田畑をうるおし、川崎市の工場地帯に水を供給しているのである。東京だけで占有するダムを相談なしで作るとはもってのほかだ。」

担当者(国)のいら立ち

 「それぞれの担当者と会った時、両者とも「相手方」の話になると、なぜか煙に巻くような話し方に変わるのが以前から気になっていた。多摩川を挟んだ隣同士のくせに他人行儀を装う。それは担当者が変わっても変わらない。」

 「そもそも、神奈川県の東京嫌いはこれに始まったわけではない。コトの始まりは、強引に進められた「明治の三多摩併合」の時にすでに生まれている。神奈川県地であった三多摩地区が、東京市に半ば強制的に合併吸収されたが、しかし神奈川県は、県有地を奪われた悔しさのみならず、合併の裏に隠された国による政治的な策略を感じていた。」

神奈川県・川崎側の不満​

1.羽村堰改造​​

 「二ヶ領用水の起工は300年を越す以前にさかのぼるが、これは玉川上水の起工より50年以上も早く、したがって二ヶ領用水は水利上の優先権を持つものである。しかるに用水の欠乏で絶えず悩んでいるにもかかわらず、東京市水道局は取水量を確保する目的で古来蛇籠工法でつくられていた羽村堰を、明治38年(1905)ごろから下流側に無断でコンクリート堰に改造した。それ以後、下流の取水はさらに難儀するようになった。」

​​2.東京市第一水道拡張​​

 「東京市の水道は創設当時、給水量は100立方尺/秒(2.78m3/s)を標準としていたが、大正5年(1916)村山・山口貯水池を根幹とする第一水道拡張計画をたて給水量を2倍に増加した。」

​​3.羽村堰下流に設置した原水補給ポンプ​​

 「東京市水道は羽村堰の堤体を浸透して流下する伏流水を汲み上げる目的でポンプを設置したが、この際も下流にまったく無断であった。」

​​4.羽村投渡堰[なげわたしぜき]​​

 「東京市水道は取水の便をはかる目的で羽村地点に投渡堰を設置したが、洪水の際これを急激に取り払うため下流の用水取入口や舟船に被害を与えている。」

 このような諸問題を絡めて、神奈川県は東京市と50数回にわたって交渉するも、昭和10年(1935)6月には決裂した。「近い隣は上手くいかない」という、現代の日本が直面する国際関係の状況にも通底しているような気がする。

内務省の斡旋、解決​

 「二ヶ領水利紛争も、内務省が積極的にその斡旋に乗り出し終息へと向かう。昭和11年(1936)2月、内務省土木局長は両府県知事を自室に招き内務省裁定案を手渡した。この裁定案をもとに両府県知事は詰めを行い、やがて双方納得のいく案ができあがった。」

 「羽村堰からの灌漑期義務放流量を2m3/sとし、東京市は補償金230万円負担するというもの。この妥協案の特徴はいうまでもなく、神奈川県側の要求する補償額を認める内容だった。その後、東京府は川崎市の二ヶ領用水組合に対して妥協案に異議なき旨を伝え、3月に内務省土木局長立合いのもと、両府県知事の間で調印は交わされた。」

 東京府は2年5カ月ぶりに神奈川県の回答引き出せたが、ダムの予定地の小河内村住民は、両県の長期にわたる交渉に苦しんだと伝えられている。大きな事業の陰で誰かが泣いていても、公共の目的の前では矮小化される見本のような事例。

の視点 諏訪の渡し​と宇奈根の渡し

 「諏訪の渡し」は川崎側の土地が世田谷側に移ったことで、主に川崎側の住民の農作業の為に利用された。「旧諏訪河原村から対岸飛び地の南河原へ渡る作場渡しだった。耕作に通う40件の農家が共同で船を出していた。大正14年(1925)二子橋の開通で廃止。」

 「宇奈根の渡し」は街道等もなく、対岸となった土地への行き交いが主だったので、原則、無料でした。「農業渡しでは一般客を乗せてはいけない。」という指摘もある。宇奈根下河原緑道の中程に「宇奈根渡し場道公園」があり、わざわざ公園に名をつけるのですから「宇奈根の渡し」の乗降場はこの付近であると思います。記念の石柱と説明文は「天神森橋」の商店街の通りを多摩川向い、駒澤大学を右に見た突き当りの土手下部に設置されている。​​​​昭和25年(1950)頃に廃止された。

           左:諏訪の渡し                     右:宇奈根の渡し

10周年記念となる「宇奈根の渡し」が開催

 令和5年(2023)5月14日(日曜日)「イベントは秋晴れに澄み上がった空の下、地域住民の協力を得て子どもたちが製作した長さ約3メートルの舟「夢叶丸(ゆめまる)」と「光吉丸」の鮮やかな水色と黄色の姿が川面に登場して始まった。「オープニング便」の同舟に乗船した保坂展人世田谷区長らが対岸で待つ福田紀彦川崎市長、同市宇奈根の代表児童らを迎え、世田谷側の川岸に帰着し開会式がスタート。これまで川崎市側にのみ立てられていた「宇奈根の渡し」の記念碑と案内板の世田谷版を除幕して初披露した後、全8回12便、総勢88人が64年ぶりの「渡し」で遊覧を楽しむ。川崎市高津区の宇奈根子ども会からは24人が乗船。」

 「宇奈根の渡し」は、子どもたちの夢を応援する「世田谷区子ども夢プロジェクト」の一つとして、平成26年(2014)から行われている。

双子のような「二子(ふたご)」と「玉川」=参照サイト・資料=

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プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、この地が“青山“となる予定。元より新住民ですので、これまでは環境の良さ、便利さをただ享受するだけでした。
●数年前から散歩し調べたりしていると、殊の外、奥深い歴史を内包する土地の姿が浮び上りました。
●子供らが土地の歴史・文化を学ぶ機会は少ないような感じ。生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しい、知っているのと知らないのでは、人間観・人生観に醸し出す味わいが違ってくるように思います。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を “堀上げ” 整理することが目標です。

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