「多摩川」を挟んだ二つの村 ①
兄(姉)たる二子(ふたご)
名称の由来と概観(高津区の説明から引用)
古代から橘樹郡(たちばなぐん)に属していた地域です。ヤマトタケルの東征説話に関連したオトタチバナ姫の話が伝えられ、また、その話に関連した橘樹神社や子母口富士見台古墳が存在します。奈良時代の橘樹郡の郡衙(ぐんが=郡の役所)の跡と思われる遺跡が発掘されており、そのそばに奈良時代創建という影向寺(ようごうじ)が存在します。こういうことから、この地域が橘樹郡の中心的な所であっただろうと考えられます。
江戸時代のこの地域には19村がありました。北見方·諏訪河原·坂戸·二子·溝の口·久地·上作延·下作延·久本·末長·新作·清沢·岩川·子母ロ·明津·蟹ヶ谷·久末·野川·梶ヶ谷の村々です。
二子という地域

上部が多摩川に接する地域なので、二子と北見方を除き川向うと地名が共通する
溝口の東につづく地域で、北は多摩川にのぞむ「多摩川のほとりの町」です。東は瀬田・諏訪に、南東は北見方に、南は坂戸に隣り合っています。南側を二ヶ領用水が流れ、地域の中央を東急田園都市線が南北に通り、「二子新地」(ふたごしんち)・「高津」の二つの駅があります。
二子(ふたご)と二子玉川の命名の由来となったとされる二子塚古墳
江戸時代には二子村とよばれていた地域で、村名は村内にある「二子塚」 に由来しているといわれています。村の東南部に古代(5~6世紀)の円い古墳が二つ並んでいたそうです。昔このあたりに有力な豪族がいたことがうかがえます。二つ塚が並んでいるので「二子塚」と土地の人は云い、それがある村ということで「二子村」という村名で呼ばれたのでしょう。この塚は、開発の波のなかで消滅してしまい、現在は住宅地になっています。
読み方は「フタゴ」が正しく、「フタコ」 はまちがいです。「フタコ」の読みが世にひろまったのは、昔、玉川電気鉄道が、二子の渡しの対岸に遊岡地をつくり、駅名もふくめて「二子玉川遊園」としたのが始まりです。
(以上、高津区由来より。小見出しは編者による)
二子塚古墳の謎
江戸後期にできた「新編武蔵国風土記稿」は、「二子村の村名は村内東南の境に二つの塚並びてあり、是を二子塚と云うより起りしならんといへり」と記し、更に塚の様子を「二子塚 村の南の方に塚二つ並びてあり 其の一は塚の敷一段二十歩の徐地にて高さ五丈許 形丸く芝山にて樹木なし 故に土人坊主塚などいへり 一は少しく東の方ヘ寄てあり 徐地六畝廿九歩高さ二丈五尺あり 南の方少し欠けて上に若木の雑木生立り」と説明する。
「二子塚古墳」は全国的な広がりで展開していて、検索するとその多さに驚く。グーグル検索の1~2ページを見た限りでは、ひらがなを振っている所では「ふたごづかこふん」「ふたごつかこふん」の2例があり、主流は「二子」を「ふたご」と呼んでいる。しかし現在は、川崎では「ふたこづか」と呼んでいる謎がある。歴史的な資料にはフリガナが殆ど無いので、おそらくかつては「ふたご」と呼んでいて、そうでなければ地名に残ることもない。上記の高津区の「ふたご」であり「ふたこ」ではないとの説明は、説得力に欠けるような気がする。この他にも町内各所の「ふたこ」表記の混在は、川向こうの「ふたこ」の影響を受けているのかもしれない。

左:史蹟二子塚之碑 右:二子塚𦾔(旧)蹟
二子塚周辺の表示は殆ど「ふたこ」となっていて、現・東急が大井町線開業時に駅名「ふたこたまがわ」に採用したという説も納得させられる。一方で、濁点付き地名の「ふたご」の由来となったとする説は曖昧というか分り難い、文化・文政期(1804-1829)に編纂された「新編武蔵国風土記稿」には稲毛領二子村(読み仮名なし)の記載もあるので、全国の二子塚古墳の多くが「ふたご」と呼ばれていることを踏まえれば、村名となった頃は実は「ふたごづかこふん」だったと考えるしかありません。
高津区の説明「この塚は、開発の波のなかで消滅してしまい、現在は住宅地になっています。」というのは現実ですが、「この塚の土質は、カマドや瓦の原材料として適していたことから、次第に掘り崩されて小さくなり、大正時代には小高い草地となっていたといわれています。」という記述に出会うと、物寂しくなる気持ちが横溢する。
村名異聞 「史蹟二子塚之碑」の裏面に刻まれた碑文
旧八王子街道には一王子村より八王子村までがあって 其の内二王子村が現在の二子(村)になったという 桓武天皇の直裔高望王の八王子口碑と合わせ伝えられている その後今を去る四百年前の天正十年甲斐の国伊奈四郎勝賴公の家士小山田備中の守嫡子小山田小治郎宗光は勝賴公が天目山に自刄した後 当地に来て二子元家敷に居を構えたという
昭和四十三年五月五日 二子第五町内会長 吉崎キン
在地の人にとり地名に一々読み仮名は必要でないことは当然で、まさか後世でどっちだなんて話題になることなど思いもよらない事でしょう。「吉崎キン」さんは「馬鹿ね、当然「ふたご」よ」とおっしゃると思う。としても「二王子村」から「ふたご」の音を想像するのは難しく、「高津文化協会初代会長・霧島雄三氏の説明がいう、音韻変化からの立論は理解できるが、とても賛成出来る議論ではない。」という説が頷ける次第。
マンションには「二子多摩川」という冠が付くところが散見され、「ふたご」地区に建つので読みが気になりますが、各ホームページを流し見しても「読み」は分りません。おそらく「ふたこ」かな?しばらく住んだ実感として「二子多摩川」の通称が一般化しているとも思えません(諏訪に3年近く)。二子多摩川というのは二子(ふたご)辺の多摩川の意味でしょうが、マンション名に使用されていることを考慮すると、不動産屋さん的には川向こうの「二子玉川」を当然、意識するでしょうし、発展している方に似せた名付となったのかも知れません。
主な地点等の呼ばれ方

写真:左・中は、二子塚古墳跡に近い場所の公共場所、いずれも「ふたこ」。写真:右は溝ノ口駅南口の道路表示版「ふたご」とローマ字表記されている
大山街道 ふたごおおどり 二子神社 ふたこじんじゃ
光明寺(二子学舎) ふたごがくしゃ 二子新地駅 ふたこしんちえき
二子宿 ふたごじゅく
二子の渡し ふたごのわたし
二子橋 ふたごばし
※二子学舎と二子橋は「ふたこ」と呼ぶ例もある
昭和10年(1935)に東急線「二子新地前」駅が誕生、その後、有名な逸話?の車内アナウンスの「ふたごしんちまえ」が(双子死んじまえ)と聞こえるとの住民の訴えで、昭和52年(1977)駅名から「前」をとり「二子新地」となった。都市伝説なのかどうかは不明ながら、約40年間慣れ親しんだ駅名の「前」を削除する変更が行われ、更にはこの時に東急社内では、いくつかの駅名の「濁点」を取るという整理がなされている(残念ながら資料名失念)。社会が発展し人々の意識も多様化する中で、耳障りに聞こえる人がいたのかも知れません。

写真:左 光明寺は二子の名家、大貫家の菩提寺であり、岡本かの子の兄の雪之助の墓所でもある。有名な二子学舎は濁点なし
写真:中 没落した大貫家の跡地(光明寺の向かい)は公園となっている。濁点あり
写真:右 近くの街道沿いのクリニック。濁点あり
現在の「二子」地区では、呼び名が混在していて公共的な所でも「濁点」が無いのは、マンション名と一緒で「二子玉川」に引き摺られているのかも
近代の二子(ふたご)
府中街道と大山街道が交差する要衝に村は存在し、府中街道は武蔵国の府中と中山道、甲州街道へと至る道として古くから活発に利用された。南側に位置する溝ノ口と合わせて、文字通り十字の宿場町として栄えた。寛文9年(1669)溝口・二子村の両村は「矢倉沢往還(大山街道)」の宿場に指定され、「継立(つぎたて)」として月の20日間を溝口村、残りの10日を二子村が交代で勤めていた。継立の役割は人足2人と馬1匹を常駐させて、次の宿場へと荷を運ぶこととされていた(荷を積み替える)。名誉職という側面と重負担という現実、従って運用に当たっては分担とか助郷とかの工夫がなされている。
「助郷(すけごう)」の稿で説明したが、当時の街道管理には先ず「継立」があり、宿場ごとに指定され公用貨客の人馬による宿継ぎ輸送で宿場は人馬を準備し、原則として一宿ごとに分担して馬背や人の背で継送した。助郷は継立の不足を補う制度だった。
田んぼだけだった「瀬田」に比べ
江戸時代、博打と商売にご利益があるとされた「大山詣り」は大流行し(一説には100万の人口で年間20万人)、道中の溝ノ口・二子宿には旅籠、居酒屋はもちろんのこと、生活の用を助ける雑多な職種の店が軒を揃え、大いに賑わっていた。この点で田んぼ・畑・桃林だけの東京側より格が上だったのは明らかで、現在でも、二子橋を渡って溝口へ続く街道道みちは、宿場町だった往時を髣髴(ほうふつ)とさせるものがある。高津で交差する府中街道は拡幅されて面影は薄れているが、宿場町は十字のように左右に広がっていた。かつての橘樹郡の中心からも近く、東側には「二子塚古墳」も存在している。
こんな状況から、商売慣れし二子の渡しの経営などでも、瀬田に対する「兄たる自尊心」が読み取れる。
甲斐・武田氏、小田原・北条氏の気配
前述の「二子塚之碑」の裏面に刻まれた碑文によると、武田勝賴公の家士小山田備中の守嫡子小山田小治郎宗光が、二子元家敷に居を構えたと伝えているので、恐らく武田家に通じる血筋が存在しているだろう。文中の「元屋敷」は、旧地名で調べると「二子の小名(こな)」では、似たようなものは「西屋敷」のみで断言できないが、瀬田でも小田原北条氏の家臣の「長崎氏」が「下屋敷」という「小名」に定着している例もあるので、その存在は推定できると思う。
「二子」の東隣「諏訪」(私が数年居住した地)の小黒氏は、かつては二子新地駅前までの広い土地を所有していたといわれる有力者で、この小黒氏は信州・諏訪氏の流れで、一族の「諏訪馬のすけ」が小田原北条氏の家臣として鶴見の寺尾城主を務めていたところ、小田原北条氏没落後、諏訪頼久一族が「小机領寺尾村小黒」に逃れ、その後多摩川沿いの稲毛の地を開き、いつしか鶴見の地名「小黒」を名乗り、定着地名を「諏訪」とし故郷の地への思いを込めたようだ。
小黒家内には小黒恵子童謡記念館があり、「この美しい地球に生きる悦びと幸せを、そして緑の自然と生物への愛と平和の心を、童謡をと通して伝えてきたい」という願いから「童謡文化体験の場」「地域の憩い、交流のば」「まちのひろば」となっている。(平成29年(2017)リニューアルオープン)
地域に有力者があって、こうした文化的な施設が出来るのは、二子玉川地区でも見ることができる。一方残念ながら、古くから宿場町として栄えていたからかどうか、権利関係が分散したからなのか、融通のきかない開発が行われている。世田谷の中心部でも見られるが、道が入り組んで慣れないと方向を見失うほどの分り難い土地となっている。
二子橋の完成

親柱を見ると向かって右側が「濁点」が入っているように見えるが、ここでも濁点問題が介在する。二子町内の電柱に所々思い出の写真が張られている。その内の1枚
大正12年(1923)関東大震災が東京中心に壊滅的な被害を及ぼす。東京への救援・復興物資の輸送と逆に東京からの避難民が急増したが、多摩川には渡し船しかなく運ぶにも運べない状態で、多摩川架橋の要望が地元で高まった。そこに陸軍省から、在京の陸軍部隊が多摩丘陵・相模原で演習をする際に不可欠な兵員・物資の輸送という観点で働きかけがなされ、多摩川の架橋実現が一気に進み、大正14年(1925)二子橋は完成した。
二子橋建設に際し、玉川電気鉄道(当時・現東急)が建設費の3割弱を出資して利用権を得、東京府、神奈川県、高津村との四者4分の1ずつを負担し、総額36万円で完成した。橋上に軌道(橋上では単線)を敷設したことにより、玉川(現・二子玉川)~溝口(現・溝の口)までの玉電溝ノ口線開通(昭和2年(1927))の呼び水となった。(ウィキペディアは上記の説明だが、東急100年史では総額52万円、旧玉電の負担額を15万円としている。また、別のサイトでは残りを東京・神奈川が2分したとする記述もある。確かに四者4分の1では玉電の負担分が分り難く、高津村が入って瀬田村はどうしたの?という疑問も残る)
「二子(ふたこ)玉川」名称定着のきっかけ
江戸時代から「二子の渡し」の運営を巡って両岸の主張が行き交い、二子橋架橋の終盤に橋名を巡って一悶着、東京側が「多摩橋」、川崎側は「二子橋」を主張した。江戸時代の土地争いに見られるように、多摩川を挟んで二子(ふたご)と瀬田は親和性と対立という両面の姿を拭いきれなかった。
最終的に橋名は川崎側の主張の通りとなったが、東京側では意図したのかどうか分からないが、読みを「ふたこ」とすることで前向きな妥協をしたような気がする。この「二子橋(ふたこばし)」の登場が瀬田地域に「ふたこ」の名を刻み、以降、瀬田から玉川に変わる地域に定着して「二子玉川」の地名へとつながったと思う。
こうして、玉電と歩行者・自動車等が併用する鉄道道路併用橋が、両岸地域を結ぶこととなった。
歴史の深み 「川向う」その強さ
多摩川に橋を渡すことが急務となり、橋を架ける工事が始まると建設関係者の行き来が増え、瀬田周辺(二子玉川駅と用賀駅の周辺)の旅館や料亭が連日賑わった。瀬田では料亭街―柳屋、慈蔵屋、割烹旅館日の出屋、同喜望館、料亭町田軒、新玉川屋等があげられる。一方、川崎側二子の旅館は、元禄時代創業の旅館兼料理屋の亀屋だけだったので(宿場町なので、府中街道辺りには適当な場所があったのだろうが、玉電が存在し足の便では瀬田側が断然有利だった)、東京側の賑わいを横目に見ながら、大貫吉之丞という人物が立ち上がる(社会が変わる時には人物が登場するというのはよく聞く話です)。酒造業のかたわら「吉原」で待合を経営していたという奇縁や、そもそも二子橋開通後の地域開発を考えて、多摩川沿いに歓楽街を作ろうと計画を有していたようだ。
大貫吉之丞が自分の水田を埋め立てて待合「大和」を開店し、競うように「亀屋」が芸者置屋「新亀屋」を開業させて、震災の翌年、大正13年(1924)は二子新地(三業地)が成立した年とされている。その後、大貫は関東大震災で被害を受けて新たな営業地を探していた、東京の吉原や向島の料亭・待合・芸者置屋などに声をかけ二子に誘致した。(吉原で待合を経営していたからこその芸当だと思う)
この花街は、昭和2年(1927)の玉電溝ノ口線の開通もあり、結局、二子橋架橋の人夫や関係者ばかりではなく、東京方面の旦那衆を呼ぶことになり、昭和7年(1932)の二子三業組合員数は「43」にのぼり、芸妓置屋35軒、料亭40軒、全体で100人ほどの芸者がいた。敗戦後には連合軍用のダンスホールが出来たり、花街は日本人用と連合軍用に料亭が分けられた、という歴史の一齣も刻んでいる。
昭和33年(1958)に施行された売春防止法を受け三業地として立ちゆかなくなったが、二子橋架橋という歴史的な出来事で、対岸の賑わいを指をくわえて見るだけでなく、関東大震災という大変をも味方につけ、その賑わいを引き寄せたことで、二子(ふたご)地域の関係者は大いに留飲を下げたであろうことは想像に難くない。
大貫吉之丞という人物
大貫家は橘花郡高津村二子に代々居住する大地主で、江戸時代には苗字帯刀を許され、幕府や大名の御用商人を務め、近代以降は菩提寺光明寺の向かいで大きな病院を開業していた。吉之丞は有名芸術家である岡本太郎の母である岡本かの子の祖父にあたる。大貫家はかの子の父の代に銀行経営のトラブルで没落し、大貫病院の跡地も今は公園となっている。
二子新地の成功を横目に
二子新地ができる前、瀬田の賑わいを支えたのは、渋谷や目黒から派遣される芸者だった。しかし呼ぶための費用がかさむことから、料亭や料理屋の経営者が「新地」開設の働きかけを始め、昭和2年(1927)には「三業地指定」にこぎ着けている。先発の「二子新地」を意識していたような感じがして、芸者の呼び寄せ費用が主たる問題でも、二子橋を歩いてでも来られる川崎側へ依頼するという選択は、鼻から除外されていた感じだ。昭和6年(1931)には組合が設立されるが、大正時代から存在している「茶屋組合」が開設当初から関わっているので、小さい所に二つの組合が存在する分り難さがあった。昭和8年(1933)には芸者置屋10軒、待合9軒、芸者は33人となっている。(組合が二つあり、一方では置屋6・待合8・芸者50という記録がある)昭和15年(1940)頃になると、戦争の影響で料理屋の廃業が続き、川原の料理屋は殆ど川向こう(川崎側)の工場の寮になり、三業地も衰退せざるを得なかった。いずれにせよ、酒造業のかたわら吉原で待合を経営していた、大貫吉之丞という人物の経験とパワーには太刀打ちできなかったと言えるかもしれない。
「慈蔵屋」点描
「二子橋」の工事に携わった人夫の多くが、東京側の料亭や「慈蔵屋」で労を労っていた。この玉川の駅前の万事屋(よろずや)の追憶
「慈蔵屋は明治22年(ママ)の創業。旅人を対象に手広く経営していた酒屋であり、食堂であり、万屋だった。街道に面した広い間口、銅葺き屋根、2本の大欅、店先の地蔵と汲み上げポンプの井戸、如何にも老舗らしい雰囲気を醸していた。」
「慈蔵屋は明治23年(ママ)の創業で今も(平成5年現在(図書発行年))なお店を続けており、店の裏にはその当時植えた古いケヤキが3本そびえ立っています。この家の造りは2階が低い天井で、昔は旅人宿であり、居酒屋、また雑貨も売っていた。」
二子玉川という「地名」は存在しない「四」
「多摩川」を挟んだ二つの村 ②
弟(妹)たる玉川、に続きます。
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