プロローグ 「なんで二子玉川?」

二子玉川という「地名」は存在しない=001

 二子玉川「郷土史会」の話として、ウィキペディアや「二子玉川ライズ」のホームページでは、対岸の「二子(ふたご)」村と「玉川」村を合わせたという説が紹介されている。

 この説を裏付けるのは、「目黒蒲田電鉄(現・東急)」が昭和4年(1929)の大井町線全線開業(二子玉川まで)の時に新駅の名称として、先発の玉川電気鉄道「玉川駅」と、対岸の川崎市「二子(ふたご)」地区に存在した「二子塚古墳(ふたこづかこふん)」にちなんで、二子玉川にしたとされている。

 当時、「三業地」として先に賑わっていた二子(ふたご)の最寄り駅にするという、商売目線の思惑が目蒲電鉄にはあったと思われ、三業地の地名は「二子新地(ふたごしんち)」なので、そのままでは「ふたごたまがわ」となってしまい、響きがよろしくないと思ったのかどうか、すぐ近くの古墳の呼び名が濁っていないことに目を付け、採用されたのかな?と推察する。商売勘だとすれば、「二子玉川」の今日は、この時点で定められていたのかも知れない。

 当時、川崎の二子には玉電の「二子停留所(現在の二子新地駅)」も存在し、おそらく停車場は基本、土地名を採用しているので(ふたご)だったように思われる。物凄く蛇足ながら、「玉電 二子電停 ひらがな」で検索すると必要なものは得られず、唯一、Search Labs AIが「玉電 二子電停は「たまでん にこでんてい」と読みます」としている。こういうローカルな案件は情報が限られるので、AIも機械読みするしか術が無いようだ。ただ、今どきの「二子玉川呼び」で一般化している「ニコタマ」に通じるものがあり、AIがこれに影響を受けているとも考えらる。(本当に余談でした

怪し過ぎる「珍説」も

 「さて、駅名の由来ですが、現在、「二子」という地名は神奈川県側にあるのに、なぜ東京側につけられたのでしょう。それには、自然現象が“いたずら”をしました。永い歴史のうちには、河川は蛇行をし進路さえも変えてゆく。かつて多摩川は、現在よりずっと神奈川寄りを流れていて、現在の二子(川崎市高津区)のところは、多摩川よりこちら側にあり、東京府荏原郡瀬田村の一部だったのです。

 東京側の人たちは.<川のヤツ、また、こちら側へ寄って来やがって、二子をあちらへ“盗られ”てしまい、まったくクヤシイ! それなら二子の名前を、せめて駅名にでもしなくちゃ損だ!> と言ったかどうかはみなさんのご推察におまかせを……。」(上記は発想が面白いので真偽は二の次で付記しました)

そして奇妙な県境​​

 この地域で注目すべきは県境であり、一般的には川の中心辺りが「境」となるところ、ここの多摩川の狛江から野毛辺りまでの境界線は、神奈川と東京を出たり入ったりする。

 宇奈根では川崎側になり、鎌田2丁目からは世田谷に大きく入り込み、鎌田2丁目の河川敷は半分程度川崎側となる。鎌田1丁目になると徐々に川に近づくも、川岸に近い「渋谷区運動場」はまだ半分が川崎側で、ボールも人も2県跨ぎで試合するという面白い状況になっている。新二子橋を越えると玉川3丁目で、そこは「兵庫島公園」となり「ひょうたん池」の南縁(砂利広場)をかすっているので、玉川では兵庫島の境界に関する議論の種となっているらしい。​​​

​​​ 二子玉川駅辺りから川崎側に近づき、直ぐ「玉川福祉作業所」の先で再び世田谷に寄り、奇妙な角度を付けて世田谷に少しずつ入り込み、二子玉川公園に至り河川敷の半分を川崎側が占める。そして、公園の「展望広場」の手前で境界線は直角に川の中心へ移動し、「第三京浜国道」の先を斜行し、谷沢川(等々力渓谷)河口付近を少しかすめるようにして、その後はいわゆる一般的な川の中心を境とする「県境」となっていく。羽田辺で川崎側に少しだけ入り込んでいても概ね中心を通るきれいな県境が続く。​​​​

 長年、多摩川の流路変更に翻弄され続けてきた地域の苦労の証しが、この地区の県境の蛇行に表れていると言えるのかも知れない。

プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、まだ“新住民”の範疇で、環境の良さ、便利さをただ享受しています。
●でも二子玉川を散歩し調べてみると、殊の外、奥深い歴史を内包していることが分かりました。
●子供たちが歴史や文化を学ぶ機会は少ないようなので、ただ生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しいと感じ、いつか目に留まる機会を期待して、土地の物語を紡ぎます。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を 、出来るだけ“堀上げ” 整理することが目標です。

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二子玉川論
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