人は三度死ぬ
あるお寺の説教だったか、宗教系のサイトだったかで「人は亡くなったあとも、忘れないでと願っているのです」と、聞いたか見たことを思い出してグーグル検索に「それらしい文字」を入力しました。最近は、しょっぱなに「グーグルAI」が全体?をまとめて表示してくれるので楽ちんです。“概念的”なことは一例として参考になります。
【「人が忘れられた時が本当の死」というのは、人が物理的に死んだ後、その人の名前や記憶が誰の心からも消えてしまったとき、その人が本当に「死んだ」と考える、という哲学的な考え方です。命つながる家系図によると、人々は3つの死を経験すると言われ、3つ目の死は、自分を覚えている人が誰もいなくなった時。この考え方は、黙祷をする時など、亡くなった人を忘れないで祈るという行動にも表れています。デジタルメモリアルサイトなどを利用して、オンラインで故人の名前や思い出を語り継ぐことで、二度目の死を遅らせようという動きも活発化しています。】少しあやふやなまとめですが、雰囲気は理解できます。
供養という風習
恐らく、日本人の多数は一年の内どこかで、お墓参りや、仏壇に線香を供えることをしていると思います。核家族化の進行が止まない都会でも、一定数のお宅には仏壇があり、少数でしょうが神棚さえ設えられています。国全体でみれば結構大きな比率で、家の中に仏や神が存在する稀有な国柄だと思います。都会ではペットの仏壇もあるようです。
こうした環境では、いつでも仏壇に向かい、お供えをし手を合わせることが普通に行われます。私の実家には「回出位牌(くりだしいはい)」というものがあり、「ご先祖や故人の戒名・没年月日・俗名・享年」を一枚ずつ書き写し、お命日ごとに前面を入れ替える仕組みです(予め順番にしてある)。一方、妻の実家では「先祖位牌」があり、蛇腹状の本になっていて「自家製の過去帳」のようなもので、「見台」にのせてあります。勿論、一番近しく思い入れの強い故人の位牌は、独立(複数)してお供えされています。情が強ければ「祥月命日」だけではなく「月命日」のお参りが、お墓に行かなくても出来る環境が、古くからの風習として日常生活の中にあります。
子どもの成長の時季時期に仏壇で親子が手を合わせ、旅行などの遠出には前後の「無事と感謝」を祈ります。故人を忘れないこうした仕組み=風習は、日本人のしっとりとした精神性(情感)の源であるような気がしています。

二子玉川「エクセル東急ホテル」30階レストランから多摩川越しの富士山
「啓蒙力」が薄れた寺院・お墓
継ぐ代がいない。遠方にある。お寺は危機の真っただ中です。地域を見回しても、お寺には殆ど「墓地」が併設されていて、厳しい言い方ですが「墓地経営」が中心のようです。従って「寺」は檀家のものとなり、余程の好事家を除いて一般人は立ち入らなくなり、その社会性は減失していきます。散骨や樹木葬など格安を謳う葬儀形態や、「我々が顔も知らない祖先のことをあまり知らないように、我々の子孫も、我々のことをあまり知らなくて結構です。私がいなくなった後も、この世は同じように回っていくでしょう。」「死後は、私の為に時間やお金を使うことなく、生きている人達のために使って欲しいです。」という傾向が増えているような気がします。
それでも「仏教」は人間を伝えますし、魂の永遠を唱えてくれます。私的には頑張って欲しい気持ちが一杯です。
葬祭業務に携わるサイトでは
【死を悼まれなくなり、名前を忘れられ、そしていつか誰からも思い出されなくなる。私がこうして毎日必死に生きていることも、いつかは忘れ去られてしまう。どんなことを考え、どんな所に住み、何が好きで、大切にしていることはなんのか?私のことを知る人がこの世の中にいなくなったら、私は本当にこの世界のどこにもいなくなってしまうのか。そう思ったら急に、途方もなく寂しい気持ち襲われました。】
【「亡くなった人のことをこの世の誰かが思いだすと、天国でその人の周りに綺麗な花が降るんだよ。」こちらは社会人になり、祖母が亡くなって悲しみに暮れているときにSNS内で偶々拝見した言葉です。綺麗に舞い散る花を見て祖母は喜んでくれるだろうか?そうだったらいいな。と涙ながらに感じたことを今でも鮮明に覚えています。】
【こうして「亡くなった大切な人を思い出す行為自体が本当の供養なのではないか」と感じるようになりました。】
こういう気持ちを商売だからと切り捨てるのか、あるいは真心で大切な仕事をしていると感じるかで、人の道の色合いは変化します。例え世が廃れたとしても、供養の気持ちは残るのではないかと信じます。
あるカトリック教会の話
【リメンバ・ミーとは、「私を忘れないで」といった意味ですが、まさにこれが死者への最大の供養だと思います。「私は一つの望みが残る。誰か一人でも二人でも私の墓を訪れ、私の霊魂のために祈り、しばしの間、静かにそこに佇むこと、その中の一人が心の清さを保ったことを私のおかげだと言って神に感謝し、他の一人が回心の実を私のおかげだとして墓に眠る私を祝福してくれること、この願いが叶えられれば、私は安らかに憩う】
人が生きて行く「人間関係」は、温かい血が流れる限り洋の東西を問わないのだなと思います。
生きた幸せ
【母は、忘れないでね、墓参りしてね、供養してねとしきりに言っていました。もちろん私もそのつもりで、もともと普通に法事する家ですし、心配する必要ないのに、あんなに切迫感や焦燥・恐怖をにじませて繰り返す訴えは少し意外で、印象に残っています。静かに逝った父とは対照的でした。】
死に直面する在宅ホスピス医
【重い事実(注、死に向き合う)をいつも抱えていたらしんどいし、楽しくないですよね(中略)忘れていられるから、のびのびその人らしく生きられるんじゃないかしら。忘れるという行為は、逃げるわけではなくて、私は、「神様からのプレゼント」だと思っています。これは患者さんだけでなく、全ての人に当てはまることです。】

行善寺八景(玉川八景)徳川将軍が見た景色
戦後、日本人の口が重くなった
つい100年ぐらい前までの家族(同族)は集団で、助け合いながら重層的に楽しみ、辛さ、喜び、悲しみ等を共有しながら暮らしていました。現在は、戦後の集団就職や政策的「核家族化」により、特に都会では家族は孤立する傾向にあります。加えて、地方でも若者の流出で「限界集落」がどんどん増え続けています。多分、有史以来続いている「家族の集団」で構成した国が、危機を迎えている時代と言っても過言は無いでしょう。
仕事や作業を終えた夜長、家長や男たちが自慢話や苦労話、そして祖先の話をするとか、女たちが「講」の話や仕来り、行事の話などをすることが普通に行われていたことと思います。良くも悪くも口伝えで、様々なことが共通理解として共有された事でしょう。特に長い歴史においては、一族の誰かしらは戦に出て、勇敢に戦えば大きく、負けたりすれば小さく、戦いの意義や様子を話し、女子供は経験したことのない世界に想像を巡らせ、万一、戦死ともなれば、故人の懐旧談に花が咲いたように思います。
こうして一族の歴史は紡がれ、共有されていました。明治時代ぐらいまでは、祖先のことが良く理解出来ていたことは、わずか一例ですが明治生まれの祖母との会話で理解できます。102歳で亡くなりましたが、生前お元気なころは思いの丈を語りました。人生を燃焼させたような自信に溢れていて、いつも圧倒されていました。歴史を繋いでいるという気迫が横溢していたように感じられました。
アメリカの占領と属国化した戦後
現代の日本には、誇りというか自尊心のようなものが希薄な感じがします。かと言って自信がないというわけでもなく、口数が少ないという感じです。無口というのではなく、敢えてしゃべらないというような抑制的な雰囲気です。歴史を引き継いでいないからか。というのも80年前の「敗戦」は、日本人が初めて経験した「遺伝子」に影響が及ぶような出来事であり、尚且つ有史以来、初めて外国軍隊の支配下に入り、多くの日本人は一斉に口を閉じたように思います。又、およそ310万人が亡くなり【大正時代に誕生した日本人の男子1348万人のうち、約200万人近くが戦死した。男女比は、100万人以上男性人口が女性人口より少なかった。】、苦しかった体験を語るべき人を多数失い、その為残された人の心に重くのしかかる複雑な思いは、想像し得る限り、心に傷を負った人の絶対数において、繰り返すと「有史以来」の社会状況のように思うのです。
多分、この事を最大の要因として、戦後の塗炭の苦しみから生きることを最優先とする思考が染み付き、社会的な無関心に近い好奇心が先細るような感じの「モヤモヤ感」なのでしょう。現代は歴史が途切れてしまった時代と私には見えますが、糸の切れた凧のような状態で時代に即した正しい国家像が描けるわけもなく、政治や経済界という肝心なところの骨がぐにゃぐにゃなので、今生きている人が、「本来の歴史」を紡ぎ、担う多数の「新日本人」に出会えるかは微妙です。せめてもの方策としては気付いた人が足元を見つめ、隊列を作り歩き始めることしかありません。ただ、資料や情報は残されているので、心に隙間風が吹くような「違和」を感じる若い人が増え、それで気付き学ぶ中から人材が輩出され、長い歴史の中に埋もれ始めている真実を、きっと掘り起こしてくれるとの小さな確信もあります。世の乱れの中から「人物」は飛び出してくる「世の流れ」。
戦争を乗り越えた
「相田 洋 わが母最後のたたかい」から見る「母の思い」
【植民地となったばかりの旧朝鮮で、(中略)朝鮮の子たちを友達として育った。長じて(中略)京城大学付属の看護学校に進学し、卒業して職業婦人となった。(中略)韓国は母にとって物心つくまで育った幼少の地であり、充実した青春時代を送った愛惜の地でもあった。】
【朝鮮が立派になっていて良かった。長い間、気になっていたのよ、朝鮮の人たちが幸せになっただろうかってね。(中略)日本人は隣の国で好き勝手をしてきたんだから。やった人は忘れても、やられた人は忘れないわよ。(中略)謝って償わなければね、隣近所のお付き合いと同じでしょ。】
【母が突然のように感想を吐露し始めたことに驚いて、ビデオカメラを取りに自室へ戻った。(中略)もう1回、母の口から同じ言葉を引き出そうと、色々な質問を次々と連射した。しかし(中略)目を見開いたように私を見つめ、口を閉じて、寡黙になり、人形のように固まってしまった。】
「産経新聞 エッセー 東京だよおっ母さんより」
【大鳥居をくぐり参拝。ふと昇殿してお参り出来ないかと思い(中略)どなたかのお参りですかと尋ねられ(中略)亡き母の兄の名前を告げる(中略)その方は当神社で大切にお祀りしていますと、氏名、軍歴、戦死地等の丁寧な証明書をいただいた。】
【生前の母から、お前の伯父さんは志願していき、戦死したのだから、お前が祀ってあげなければ、伯父さんはひとりぼっちだよと聞かされていた。】

玉川3丁目の河川敷(正式には鎌田1丁目)新雪と富士山
土地を理解するための「街歩き」
資料を読んだり、ネット検索をするわけですが、街をぶらぶらすることで得られる実感は蔑ろには出来ません。それで暇を見つけては歩き廻っています。時々のテーマによっては、同じ所でも印象が変わるような気がするのと、小運動も兼ねていて飽きることはありません。それまで気づかなかったことに気付くということもままあります。比較的お寺や神社は、季節により趣も変わるので、訪れる機会が多くなります。墓地はいつも静かですが、一基毎に夫々の人生や体験や知性が納まっているように感じられ、歩く速度も自ずとゆっくりとなるような気がします。全くの他人なので、流石に「念」のようなものは感じられませんが、敬虔な気持ちになるのが常です。
ブログを始めるきっかけとなった、岡本1丁目「長円寺」の堅山南風(かたやまなんぷう)さんのお墓は「夫婦墓」であり、石板には「墓誌」でなく南風さんの略歴とご夫婦の来歴が記され、特に「大正4年3月結婚尓後相和し、波風なく、銀、金の結婚式を挙げしが」の一行に痺れ、恐らくお子さん方が両親を顕彰されたものと思いました。堅山南風さんの存在も知らなかったので、調べる内に地域紹介のブログが始まっていました。
瀬田1丁目「行善寺」には、戦死された故人を悼む個人名の顕彰碑があり、(域内には他のお寺にも故人顕彰碑は存在しますが、行善寺は数と大きさが際立っているように思います。)又、近くの「法徳寺」には江利チエミさんの一族のお墓とは別に、雪村いづみさんがデザインしたといわれる「チエミ像」があります。いろいろな想いが墓地では交差し、それを形として目の当たりにすると、「あの世」への思念が確かなものだという気持ちが強くなります。恐らく「あの世」は想い続ける人の心の中で存在し、「百通り」の「あの世世界」に「現世」は包まれている。そんな想像が働きます。
中森明菜 忘れないで
特にこれまで「明菜さん」に注目していたわけではありませんが、ブログを始めて3年程、作業中は明菜さんの歌声をよく流しています。彼女の歌は何故かしみじみとしてしまいます。凄く一生懸命な姿勢と、妥協を許さない一途さが感じられ、何かを背負っている風のいじらしさが滲み出ています。
明るく歌っているのですが、それだけでは収まらない情感も込められているようで、何回聞いても新鮮さを失わない歌い手です。
彼女の’91年「夢ライブ」は、引退か、休養か、区切りのライブだったようです。エンディングは「忘れて」という曲でしたが、恋が終わり、思い出を「なくしたくて なくしたくて」と繰り返し、更に「忘れたくて 忘れたくて」被せて、せつない気持ちが表現されます。この日、彼女は続きを加えました。「心配かけてごめんね」と呟き、「忘れないで」「想いは変わらない」と情感を込め、最後に「見つめていて」で気持ちを収めました。事情は分かりませんが、重いものを背負った小さな女性の姿は想像できました。そして、こんな気持ちの伝え方しか出来なかったことが、とても不憫に思われました。
今回の雑感は、明菜さんの「替え歌」から刺激を受けて、人の想いについて考えてみました。
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