住めば都と風が吹く

 私のように辿りついたというか、何らかの理由で居付いた人たちの殆どは、この土地が体験した昔の困難や苦労を知る由もなく、今のあらゆる面で安定し様々な商業施設が身近にある生活から、「素直にいい所」だ、「緑が豊かで川もあり住み易い」という気持ちで住んでいるように思う。

 令和2年の統計では二子玉川(このブログが基準とする大二子玉川)の居住者の総数は約54千人。この狭い地域において(耳が悪いのか)ザワザワした感じが全く聞こえて来ない。100年以上をひとつの基準として地域を見渡して、いわゆる「真の土地の人」は極少数派のように感じられ、世田谷区全体の傾向では1~2割は流動的人口で、気に入って住んでいる残りの約7割の住民と合わせると、少なめに見積もっても「新住民」は大勢の9割となり、外形的に見れば、すっごい新しい「街」といっても大袈裟ではない、仮に新しい住民が自己主張を始めれば、いくら鈍感な人でもザワザワ感を感じるようになると思う。

 それがそうなっていないのは「1割」の存在、100年以上前から住み続けている住民に加え、基準は曖昧ながら例えば50年以上住み続けていれば土地の人と呼べるのかどうか、いずれにしても“目見当”で古株の住人は約1割とする、あくまでも推測。そうした方々により町内会、商店街、学校組織、寺社に関係する集まりや行政との連携など町全体を調和させる仕組みが、幾重にも絡み合って地域の秩序を守り、変わらない良環境は保持され、新しく定住する人々は心配も少なく、安心して暮らせる「二子玉川」となっているような気がする。

 蛇足ながら、みんながそうだとは確信持てないが、例えば夏の暑い日、地元の人が高島屋へ行くときにサンダルで行く人はいない、そういう雰囲気が二子玉川には漂っている。

超個人的『重要点』

 二子玉川の魅力は、1に地形、2に水が流れる川があり、3に歴史がいく層にも重なりその面影も残りつつ、新と旧が調和よく国分寺崖線を中心に上下に納まり、まるで箱庭のような空間の存在があげられる。神というか先人たちの苦闘故か、歴史的変化は現在も止まらずに進んでいる。商業方面は時代を写す鏡の如く活発に変化し、土地全体の動向(グランドデザイン)も東名高速や等々力大橋(仮称)などの計画に絡んで、環境を保持しながら10年、20年先の計画がゆっくりと進む。敷地の大きな家が様々な要因から分割され分譲住宅に変更されることも多い昨今、全般的な調和が損なわれることが無いような進め方もなされている。

①変わらない地形を感じて

 およそ12~1万年前、北は「荒川」、南は「多摩川」に挟まれた広大な扇状地が、その後の地殻変動と海面低下によって陸化し、富士山や箱根火山の降灰やその他の要因(風化した火山灰=風塵説)が加わり、関東ローム層という平坦な台地が形成された。

 二子玉川においては、南方向に「溝の口の津田山(七面山)」があり、北側は「国分寺崖線」となっていて、古多摩川はこの約3㎞弱の間を流路を変えながら流れ、恐らく南から北へ移動して川崎側の河川敷は広く残り、東京側は河岸段丘に寄りとなり、そこに4本の「生きた川」が多摩川の流れに寄り添うように存在し、その内の2本は国分寺崖線を侵食し、言葉にするとチョット恥ずかしながら小規模な「グランドキャニオン」のような、万年単位の大地の変化を体感しながら散歩できる環境を作り上げた。

殿山は南側の野川に沿った崖線の端で、国分寺崖線の舌状台地が北側の仙川に切り取られ、西の大蔵地域と長細い島状態となっていたが、東名高速道路の開通により、更に切り離され孤島のようになっている。地理院地図(本稿の地図及び数値の参照先)によれば標高約30m、地上高は約15mとなっている。

②水路のような一級河川

 武蔵野台地上にある世田谷区のほとんどの川は暗渠化され、僅かに開渠として残されているのが二子玉川を流れる4本の川と用賀を流れる矢沢川(等々力渓谷)となる。水害が多発し、それへの対応かそれぞれの川は掘り下げられ喜び半減という感も拭い難いが、それは贅沢と言うもの、水面が輝き、水鳥が遊び、野鯉や小魚が泳ぐかけがえのない宝物がここにはある。多摩川の本流があればいいという淡白な考えも「御もっとも」と頷きつつ、然りながら多様な要素が絡み合う「集合美」のような二子玉川の姿は本当に恵まれている。

 丸子川の一部では、車が相互通行となり危ないのでお勧めしないが、その他の川沿いは車の心配も少なく、ゆっくりと散歩ができるのでお勧めだ。丸子川というのは旧六郷用水なので、小さいというのか「か細い川筋」で、これでも「一級河川」なので洪水防止を中心として管理が行き届いている。その他の3本も一級河川となっていて、用賀の矢沢川も同様で国家管理で万全、自分が知る限り洪水などは見られなくなっている(矢沢川の中町辺りで多少の問題が出ているそうだ)。

 ふと、一級河川故に開渠なのかと考える。前述のように世田谷の河川は殆ど暗渠となっていて、それらは二級河川の「目黒川」に繋がり、そうすると自治体の管轄で、下手に開渠にすると事故や洪水や何くれと問題が発生したら面倒なので「臭いものには蓋」、なんか文字通りの結果。緑道として川筋は残されているものの、無いよりは有った方が良いという風にしか見えない残念さ。

 川は本流と支流が一体で、多摩川が一級河川なのでその支流も含まれているようだ。やはり幸運ということを意識せざるを得ない。小さな疑問は、玉川3・4丁目に「谷川緑道」があり、名前の通り谷川(やがわ)という川が存在して、現在、緑道暗渠となっている。野川につながる立派な多摩川支流なのに、開渠とならなかったのはどうしてなのだろう。水の流れが維持されていれば、正に家の脇を川が流れるという姿が見られたかも知れないが、たぶん水源の仙川の大規模な流路変更工事などや元々、玉川3・4丁目の用水の役割を果たしていたことから、田んぼも住宅に変わる中で川としての役割が終わり、名だけを残したのだろう。一部に、谷戸川が六郷用水で流れを切られ、その下流部分が谷川だという説が散見されるが、疑問を呈しておきたい。

静嘉堂緑地は三菱の2代、4代社長を務めた岩崎彌太郎、小彌太親子の霊廟と、小彌太が蒐集した古文書を管理する文庫が存在する。小彌太の代に周辺を大々的に取得したようで、父親が亡くなった際にその中心的場所(多摩川と谷戸川が侵食した舌状台地の先端部分)に玉川霊廟を建築した。標高約34m、地上高約20mとなっている。

③在るか無きかの歴史の今

 歴史なんか知らなくても今を生きることに不自由はない、というのが戦後の日本の実相のような気がする。日本の学校で国史を教わる機会が全くないというよりも、先生方が知らないという大問題が誰にも意識されないままにきている。これは社会的な問題なので、個人が太刀打ちできないと現時点では諦めざるを得ないけれども、その内に状況が変わりその大切さに気付く時が来ると信じるばかり、世界で唯一急激な改変もなく数千年の歴史を紡いできているのだから、たかが100年の時間経過などで屋台骨に影響及ぼすことは無いものと楽観している。

 地域において個人としてできることに励み、記録に残してゆけば目に留まることもあるだろう。そうした人が各地にいて広がりが表面化してくれば、流れを掴めるかもしれない。そのために、地域の歴史を物語として整理していくことが必要であり、又、例えば当地の「長崎氏の瀬田城」に関して、多くの人はその存在をあるものとして伝えていて、疑問を呈する人はいるものの掘り下げが足りないという風に感じている。真実を探ることが重要で、こんな小さな地域ですら解釈が違ってしまうのが、資料が限られている歴史の怖さと言えるのかもしれない。

 以前言ったかもしれないが、日本人の強さは祖先とつながり、数世代前は文書や口伝で過去という縦軸をみんなが共有していたことによる。日ごろは平和的に過ごしていても、一旦緩急あれば立ち向かう強さは揺るぎない歴史観から来ていると思う。幸いにして戦後80年、日本には戦争は無かったが、世界中は止むことなく戦いの明け暮れとなっている。ユニセフが「戦争の最大の被害者は女、子供です。寄付してください。」と、か細い声で呼び掛けている。横浜の「イケヤ」で時々遭遇する光景、私にはどう考えていいのか良く分からない。

 人を殺めても何とも思わないということや、助け合ってみんな仲良くしようということ、人類はそれぞれ異なった記憶の遺伝子を持つ種別が存在するような気がする。日本の近辺には物騒な国もあり、仮に万が一の時には、平和遺伝子の種族と言えそうな日本人は、立ち向かい抵抗すると思う。それは日本の歴史にしっかりと刻まれている。ただじわじわと潜入されある日突然という場合は、お人好しのきらいのある日本人は気づかないという内心の不安はある。

地域でコツコツと

 街を歩き、図書館に通えば、平安時代頃までの痕跡も見つかり、体系だっていないなら自分で組み立てる楽しみが味わえる。玉川村独立構想とか、「玉電」から始まった二子玉川の飛翔、深掘ればザクザク出てくる大判小判、夢を見ているように見えるかもしれないけれど、ともかく幾つもの物語が掘り起こしを待っているように感じる、小さいけれど魅力的な「二子玉川」。

 「素晴らしいよ」と声を大にして言っても、日本中、世界中を見渡せば比べようがない素晴らしい文物・天然自然は無数にあり、又、一例をあげれば北の辺境の過疎の村に行っても、雪に埋もれ吹雪に頬を打たれても、ここが一番だという人が必ずいる。世界中どこでも同じで、難民として故国を離れざるを得ない人でも、当面の困難が解消されれば戻りたい郷愁というものが普通の人間にはある様に思う。住めば都ということはそこに家族がいて、友人知人が居て生活の糧さえあれば「都」となり、素晴らしいと思える環境が供わっていれば尚更。

 私に関しては全くそんな感じで、今のところ不満もなく、時間をつくって散歩や資料の整理をして、少し熱が入れば退屈という言葉にも無縁でいられ、更に元気で過ごしているので「素晴らしい都」と殊更に言っている。

プロフィール
主宰・管理人
原 一六四

●二子玉川で二十幾星霜、この地が“青山“となる予定。元より新住民ですので、これまでは環境の良さ、便利さをただ享受するだけでした。
●数年前から散歩し調べたりしていると、殊の外、奥深い歴史を内包する土地の姿が浮び上りました。
●子供らが土地の歴史・文化を学ぶ機会は少ないような感じ。生活した思い出だけの“ふるさと”では寂しい、知っているのと知らないのでは、人間観・人生観に醸し出す味わいが違ってくるように思います。
●この土地にしみ込んだ多くの人の営みの記憶を “堀上げ” 整理することが目標です。

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